株式会社鳥藤本店

株式会社鳥藤本店

【福島県富岡町】

諦めずに、できることをコツコツと
“人間力”と創業時の看板メニューでイチから再起を図る

企業情報

  • 企業名 株式会社鳥藤本店
  • ヨミガナ カブシキガイシャトリフジホンテン
  • 業種 食料品製造業/飲食店/持ち帰り・配達飲食サービス業
  • 代表者 藤田大氏[代表取締役]
  • 所在地 本社:福島県双葉郡富岡町大字小浜字中央727
    いわき営業所:福島県いわき市四倉町下仁井田字北追切51-1
  • TEL 0246-32-8003(いわき営業所)
  • WEB https://www.torifuji.co.jp/
  • 創業年 1949年
  • 資本金 1,110万円
  • 従業員数 73人
  • 売上高 非公開

企業概要

創業当初は「食堂鳥藤」として食堂を経営。1970年代に入ると東京電力関連企業や学校などへの給食提供事業をメインとし、その後業務用の惣菜やソース類の製造・販売など、食に関するさまざまな事業を展開する。東日本大震災以降、新事業として、富岡町の復興を目指し「さくらモールとみおか」内フードコートにてラーメン店「浜鶏(はまど〜り)」を運営。食卓用の「浜鶏ラーメン(1食入袋、3食入箱)」の製造・販売も行っている。

原子力発電所で食堂運営。被災で仕事無くなるも、炊き出しから再スタート

東京電力福島第一原子力発電所。東日本大震災に伴う事故により、国内外にその名が知られることになったこの施設で食堂を運営していたのが株式会社鳥藤本店である。故吉田昌郎元所長をはじめ、映画『Fukushima 50』の登場人物のモデルにもなった作業員たちも皆、鳥藤本店の提供するメニューを日々食べていた。

自らも福島第一、第二原子力発電所で長く勤務した鳥藤本店代表取締役の藤田大氏は、「顔と名前が一致する人が多く、東日本大震災の前日も吉田元所長など10人ほどの方と一緒にお酒を飲みながら技術者談義をしていました」と振り返る。

鳥藤本店代表取締役の藤田大氏

鳥藤本店は1990年代後半に経営難の時期があり、改善のため社員教育に取り組んできた。それに反発して退職願を突き付けてきた社員と一晩語り合うなど苦労を重ねながら、10年ほどかけて考えが浸透。2011年3月9日には新社屋の地鎮祭を行い、未来に向けて踏み出したばかりだった。

しかしその2日後、東日本大震災が発生。翌12日には福島第一原子力発電所1号機で水素爆発が起きる。食堂で働いていた人も含め、当時の従業員115人全員が発電所から程近い富岡町の本社から町外へと、避難を余儀なくされた。

3月27日、藤田氏は従業員の緊急時連絡先を取りに、富岡町の事務所に戻る。その帰り道、いわき市にある東京電力の社員寮を訪れ無事を確かめ合っていると、東京電力が炊き出しを行う事業者を探していることを知り、二つ返事で引き受ける。

最初の炊き出しを行う前日、津波で壊滅的な被害を受けたいわき市薄磯地区を訪れた藤田氏は、家の土台しか無い敷地の前に座り込んでぼうぜんとしている人の姿を目にする。「生き残っただけ本当に幸運だったんだなと、そのときに痛感しました。この東日本大震災があったおかげで、自分の人生は最高だったと言って死ねるように生きようと決意しました」。

その後藤田氏は、いわき市駅前のホテルで従業員と寝泊まりしながら、1カ月ほど炊き出しを続けた。

避難生活を送っていた当時の社員に、「いわきで一緒に仕事をしたい」「双葉郡に戻ったら一緒に仕事をしたい」「今いる場所で新しい生活を始める」と選択肢を設けて復職の意向を聞いた結果、「いわきで一緒に仕事をしたい」と答えたのはたったの15人しかいなかった。
「紆余(うよ)曲折ありながら、時にけんかしながらも、ずっと一緒にやってきた社員がばらばらになってしまいました。いよいよこれからだと思っていたときだったので、かなりこたえましたね……」。

「発電所を食事で支える」使命感で弁当の製造や給食業務を再開

いわき市薄磯地区での決意を胸に、「これまでずっと食事を提供してきたので、やはり食の世界で復興に貢献したい。やるしかない」と奮起した藤田氏。

「私の役目はとにかく、『仕事と人材の両方を元の状態に戻すこと』。戻ってきてくれた15人の社員のために仕事を取ってこなければいけませんけど、仕事だけ増えても今度は人が足りなくなりますからね」。

そんな藤田氏や鳥藤本店を支えたのは「人のつながり」だという。藤田氏は東日本大震災以前に付き合いのあった取引先や、弁当製造や給食事業などで懇意にしていた仕入先に対し、「絶対に再開するからそのときは頼むね」と片っ端から声をかけて回った。取引先の企業も被災者で、お互い励まし合うように関係性を再確認していったのだ。

元々行っていた弁当製造業務や食堂事業、給食提供事業も一部再開のめどが立ったが、理想的な状態には程遠かった。そんな中、藤田氏のものの考え方や自身のメンタリティに「ある変化」が生じたという。

「あれだけの出来事があったので、最初のころはどうしても被災者意識があったり、先の見えない中で漠然とした不安があったりして、愚痴やネガティブな発言、他人や環境のせいにすることが多かった。でもこのままでは駄目だと気付き、『他の社員はもちろん、取引先や仕事に関わる関係者は同じ仲間、友達だ』と思うようにしました。そうしたら、さまざまな企業や復興をサポートしてくださる省庁の方々などとの関係性が少しずつ上向きになってきたんです」。

2015年、福島復興給食センター株式会社を給食業界大手の日本ゼネラルフード株式会社と共同で設立。東京電力福島第一原子力発電所の廃炉作業を行うスタッフ向けの給食提供を行うこととなった。「廃炉の作業が終わるまで数十年、しっかりとスタッフの食生活を支えていきたい」と藤田氏は意気込む。

また同年、町民公募による「富岡町災害復興計画(第二次)」に参加。町民30人と役場の若手二十数人で産業やまちづくり、環境などの部会に分かれて計100時間ほどのワークショップを行い、計画の策定に関わった。そのときに「こんなに町を強く思っている人たちがいるんだったら、何とかなるかもしれないと思いましたね」と振り返る。

給食業務における、実地研修の様子 給食業務における、実地研修の様子

創業ルーツの食堂とラーメン復活。必要とされるものを町に

鳥藤本店の現在の柱は給食事業だが、そのルーツは実は、戦後間もなく創業者で父の藤田勝夫氏が富岡町で開いた「食堂鳥藤」だ。そこで町の人が利用できる食堂をもう一度作ろうと、2016年、富岡町の避難指示解除に向けて先行開業した公設民営の複合商業施設「さくらモールとみおか」のフードコートにラーメン店「浜鶏(はまど〜り)」をオープンする。看板メニューは、創業のきっかけとなった鶏を使った「浜鶏ラーメン」と親子丼だ。

鳥藤本店の社史の一部。藤田氏の父親・勝夫氏が前身となる「食堂鳥藤」を創業した際、看板メニューは鶏ガラをベースとしたラーメンだった 鳥藤本店の社史の一部。藤田氏の父親・勝夫氏が前身となる「食堂鳥藤」を創業した際、看板メニューは鶏ガラをベースとしたラーメンだった

「このラーメンを全国に通用するようなものにしたいと商品開発、ブラッシュアップを続けて、2018年1月に店をリニューアルし、お土産商品も作りました」。このときも、ラーメンをお土産化するノウハウに長けている人を紹介してもらうなど、周囲に頼った。そうしてできた渾身のお土産商品は2019年に「JR東日本おみやげグランプリ」食品部門で銀賞を受賞。年間2万食を売り上げるヒット商品に育った。「会津の喜多方ラーメン、中通りの白河ラーメンと並ぶ福島三大ラーメンの一つになれば」ともくろむ。

富岡町の複合商業施設「さくらモールとみおか」のフードコート内にある「浜鶏(はまど〜り)」 富岡町の複合商業施設「さくらモールとみおか」のフードコート内にある「浜鶏(はまど〜り)」
店の看板メニュー「浜鶏ラーメン」 店の看板メニュー「浜鶏ラーメン」

そのほか、廃炉作業や復興作業に当たる人にコンビニが必要とされるだろうと考えて各社と交渉し、最終的に株式会社ローソンと契約して原子力発電所内や富岡町内に出店。休日のレジャーになればとシミュレーションゴルフが楽しめる「ドライビングレンジ・マスターズ」をオープンするなど、その時々で町に必要とされるものが何かを考え、アクションを起こしている。

再び動き始めた町に交流人口を呼び込み、持続可能な発展を

2017年4月1日、帰還困難区域を除いて富岡町の避難指示が解除された。藤田氏は富岡町の公園で前夜から24時をまたいで行われた竹あかりのイベントに参加していた。「当日は雨が降って、並べた竹を一つひとつひっくり返して水を出して火を付けて。懐かしいですね。ここからいろいろ始まっていくんだろうなと思いました」と目を細める。

「いろいろ始まっていく」と同時に、他の課題も生じる。除染作業や復旧工事の作業員が減少する一方で、少しずつだが競合するお店も増えていった。「除染作業や解体工事の真っただ中と比べれば、日中の人口は半分より減っているでしょうね」。

そこで一般社団法人HAMADOORI13(はまどおりサーティーン)を仲間と共に設立し、浜通りの広域連携により交流人口を増やす活動、持続可能な経済づくり、次世代に向けた人材育成を行っている。

藤田氏

藤田氏は2013年5月、地域・年代・性別・職業・立場を超えた対話を通して東日本大震災がもたらした課題に向き合う「未来会議」に参加したことがきっかけで富岡町のバスツアーを立ち上げ、延べ1,500人ほどを案内した実績がある。「関係性をつくっていくことで町を訪れる人が増えて、ひいてはコンビニに寄ってくれる人、ラーメンを食べて帰ろうという人も増えていけば事業にも還元されるはずです」。

また、自社の社員の育成にも余念が無い。

「私が社長に就任したのは2020年なのですが、『もっと社員一人ひとりとの距離を近づけたい』と思っていくつかのアクションを起こしました」。

そのアクションは大きく3つ。1つは経営理念を再構築したこと。2つ目は、東日本大震災以降はずっと休止していた店長会議を復活させ、事業の見直しを活発に行うようにしたこと。最後は鳥藤本店の歴史をストーリー化した漫画を制作し、社内に「仕事の意義」や藤田氏の思いを伝えたことだ。

「社員からは『経営理念はシンプルで分かりやすくなり、また、漫画によって会社のことをより深く理解できた』といった声をもらいました。目的は、会社に誇りを持って、仕事を楽しんでもらうことです。社員たちが楽しく仕事をすれば、お客さまも自然と付いてきてくれると信じています」。

2022年4月からは、再開した富岡小・中学校の給食業務を任されるなど、鳥藤本店が持つ営業許可の施設数は東日本大震災前の約3分の1まで回復した。藤田氏は「まだまだこれから」と語るが、これまでの努力は着実に少しずつ実を結んでいる。

最後に富岡町への思いを聞くと、「地域には見えないバトンがあるんだなと思いました」と話し始めた藤田氏。「消防団や商工会、町内の自治会など、先輩から後輩へ、次はお前の番だからなと言われて、断り切れずにやってみると、こういうふうにこの地域は続いてきたんだなと初めて気付きました。バトンが脈々と地域の中で渡されていたんです」。

「全町避難によってそのバトンを持っていた人や次に受け取る人も一度いなくなってしまった。しかしインフラが整い、人が増えていけば再びバトンはつながっていく。それまでは私が一つでも多く預かっておこうと思っています」。誰もいなくなった町に残されたバトンを一つひとつ拾い上げ、いずれ必ず戻ってくる未来の担い手に手渡したとき、富岡の歴史はつながっていく。

課題

・町外への避難を余儀なくされ、原子力発電所内の食堂などすべての仕事が無くなる。

・避難生活を送る従業員の多くがいわき市での即時復職を望まなかった。

・避難指示解除でお店は増えてきたが、工事人口は減っていった。

解決策

・炊き出しの仕事を受け、いわき市で弁当製造の体制を整える。

・これまでのつてを頼って、仕事の確保に尽力。同時に人材確保と社員教育にも力を注いだ。

・食堂をはじめ町に必要とされる業態を展開し、「浜鶏ラーメン」をブランド化。

効果

・廃炉や復旧に当たる作業員向けの弁当や食堂、売店の運営を任される。

・ゼロになってしまった仕事の規模は、被災前の3分の1程度まで回復した。

・「浜鶏ラーメン」が「JR東日本おみやげグランプリ」銀賞を受賞し、年間2万食を売り上げるヒット商品に育った。

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