岩手・宮城・福島の産業復興事例30 2018-2019 想いを受け継ぐ 次代の萌芽~東日本大震災から8年~
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遠野市唯一の酒蔵である上閉伊酒造株式会社の歴史は長い。「建屋酒造店」として初代新里庄右衛門が創業したのが江戸時代の1789年。戦時統制下の1944年に上閉伊地区(遠野、釜石、大槌)の7事業者が合併して会社組織化され「上閉伊酒造株式会社」と名を変え、現在に至る。時代が変わっても、その手法は創業当時から変わっていない。遠野市の水と気候と酒米、そして創業時から継承されてきた南部杜氏の技術――。丁寧であること、地域に根差していること、伝統を守ることにこだわり、品質の高い清酒を造り続けてきた。明治時代から続く鑑評会「南部杜氏自醸清酒鑑評会」での優等賞受賞や、フランスの日本酒コンクール「KURA MASTER」でのプラチナ賞受賞といった華々しい経歴を見れば、その品質の高さは十分に理解できるだろう。約230年もの間、こだわりを守り続けてきた上閉伊酒造だが、決して変化を拒んでいるわけではない。むしろ柔軟に時代に対応してきたと言える。日本酒の国内消費量の低迷や若年層の酒離れなど、日本酒を取り巻く環境が変化していることを感じ取ると、「すぐに量より質で勝負する方向にシフトした」と代表取締役社長の新里佳子氏は語る。「かつては外部の杜氏が、何人かの蔵くら人びとを連れて蔵に入り、半年間寝泊まりしながら酒造りをしていたため、ある程度の量を生産することができたのですが、もうそのような時代ではなくなってしまいました。上閉伊酒造の最大の武器であり、こだわりであるのは、南部杜氏から伝承してきた技術です。だからこそ、生産量ではなく、品質が高く本当においしいお酒を造っていこうとなったんです。東日本大震災以降、売り上げが下がり続けましたが、新商品の投入など常に前向きな取り組みで、売り上げ微増を続けるまでに回復させることができました」(新里氏)。上閉伊酒造が変化に柔軟なのは、1999年に老舗の酒蔵ながらビール事業をスタートさせたことからも分かる。遠野市が日本有数のホップ生産地であったことや、クラフトビールブームが到来していたことなど、ビール造りを始めるきっかけは複数あったが、最も大きな理由は、半年間程度の季節労働者である杜氏や蔵人をビール製造を通じて通年雇用しようというものだった。とはいえ、ビール造りは素人同然。ドイツから醸造士を招しょう聘へいし、一から学ぶことから始まった。「当時はビール製造を事業化して本当に採算が取れるのか疑問もあったようです。クラフトビールは大手メーカーのビールと比べ単価が高く、土産品だという認識が強かったため、一定以上の消費を見込むことが難しいものだったのです」(新里氏)。“ホップで有名な遠野市の老舗酒造が造ったビール”という物珍しさもあり、滑り出しは順調だった。東京の営業担当者を配置し、首創業時から継承されてきた南部杜とう氏じの技術とこだわり老舗酒造が始めた新事業はクラフトビール製造20上閉伊酒造株式会社[SDGs]2030年に向けて2030年復興への歩み[売上高(万円)]2010年11,2802011年11,4302012年10,3102013年9,4702014年9,950●新里氏が代表取締役社長に就任●TKプロジェクトに参画2015年9,900●経営改善計画の策定2016年11,600●クラウドファンディングで資金調達2017年11,200●「第99回 南部杜氏自醸清酒鑑評会 吟醸酒の部」優等賞受賞●「KURA MASTER 2018」プラチナ賞受賞2018年6,0009,00012,00003,000ビールの里構想を実現するために、事業の垣根を超えて複数の地元企業がパートナーシップを組んで地域活性化を推進。新たな産業やプラットフォームの生成なども目指している。多角的、複合的アプローチで遠野市を世界一のビアシティに【目指していくゴール】被災地での再生・被災地への進出海外進出・観光誘致地域振興・スポーツ振興社員の働きがい新分野進出※10月~翌年9月まで※上閉伊酒造全体99

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