岩手・宮城・福島の産業復興事例30 2018-2019 想いを受け継ぐ 次代の萌芽~東日本大震災から8年~
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[SDGs]2030年に向けて「工場があと30㎝低い場所にあったら、被害はもっとひどいことになっていたでしょうね」。東日本大震災当日、株式会社ササキプラスチック代表取締役社長の佐々木弘樹氏は高速道路を車で走っていた。一ノ関市付近で異様な揺れを感じ、車を止めて初めて、揺れが地震によるものだと知った。「すぐに会社に電話を入れ、従業員にも工場にも、大きな被害は無いと知らされてホッとしましたが、会社へ急ぐことにしました」。その途中で、佐々木氏は津波の報道を耳にする。慌てて会社に連絡しようとしたが、もう携帯電話はつながらなかった。「誰もが同じ思いでしょうが、まさか津波に襲われるとは考えもしませんでした」。津波はササキプラスチックの工場の床まで押し寄せた。設置されていた精密機械類は、地震の揺れによって部品の交換などは必要になったが、浸水の被害はやや高台にあるおかげで辛うじて免れた。東日本大震災後しばらくは生活の確保に追われて、事業の再開を考えるどころではなかったが、混乱が収まる中で機械類の修理、工場の再整備を果たし、電力の回復を待って再スタートした。発生から約3カ月後の6月上旬のことだった。比較的スムーズに事業が再開できたのは、何といっても被害が軽微だったことが大きい。「工場設備はもちろん大切ですが、本当に幸運だったのは14人のスタッフが無事だったこと。全員で事業再開への作業に取り組めましたからね」と、佐々木氏は振り返る。さらに岩手県内から愛知県まで約30社ある取引先との関係が途切れなかったことや、機械類の修理費用を保険金で賄えたことも早期の再開を後押しした。「技術面をはじめ、それまでに培った取引先との信頼関係が役立ったと思います。県内の取引先に大きな打撃を受けたところが無かったことも幸いしました」。火災保険に地震保険を付けたのは、貴重な精密機械類が地震の揺れで万一損傷した場合を考えてのことだった。リーマンショックの影響で保障額の見直しを余儀なくされたときも、解約はしなかった。「保障の見直しがなければ、もっと良かったのですが」と言いつつ、非常時に備えるという経営者の責任は果たした佐々木氏。「頑張って支払いを続けて良かったと思った」と当時の素直な気持ちを述懐する。1997年に創業したササキプラスチックは、半導体製造装置をはじめ、各種の機械や装置の樹脂部30㎝の差で回避した精密機械類の全壊幸運と事前の備えで早期の事業再開を実現13株式会社ササキプラスチック2030年復興への歩み[取引先数(社)]28●5月 電気が復旧し、部分的な操業を再スタート●6月 工場の再整備により、事業を再スタート2011年322012年362013年362014年37●5月 2016年の岩手国体の 炬火トーチの製作2015年382016年38●6月 シリコンゴムに 直接加工できる3Dプリンター導入2017年40●7月 自社ホームページを公開2018年203040010専門的なものづくりの技能を次世代に伝えることで、地域における雇用の創出と、医療や観光などものづくり以外の領域への技術貢献を、日本全体に広げていく。高度な技術を継承し日本全体の活性化を支える被災地での再生・被災地への進出海外進出・観光誘致地域振興・スポーツ振興社員の働きがい新分野進出精密部品やモデルなどを多様な取引先に提供吉里吉里地区の高台に位置するおかげで致命的なダメージは受けずに済んだ【目指していくゴール】※4月~翌年3月まで75

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