岩手・宮城・福島の産業復興事例30 2018-2019 想いを受け継ぐ 次代の萌芽~東日本大震災から8年~
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[SDGs]2030年に向けて本州の最東端に突き出た重おも茂え半島。親潮と黒潮の潮目に、半島の自然林が生むミネラル豊富な水が流れ込むその海は、良質なウニ、アワビ、ワカメ、コンブ、サケなどを育む絶好の漁場になっている。古代から漁業が行われていたと伝わるこの地に地域全体の漁業組織が設立されたのは1903年。戦後間もなく漁業協同組合となり、その初代組合長、西館善平氏が生み出した言葉「天てん恵けい戒かい驕きょう(天の恵みに感謝し、驕おごることを戒め不慮に備えよ)」は、重茂漁業協同組合の基本方針として今も組合員に受け継がれている。「天然資源の採取を控えつつ、自らの努力で新たな資源を生み出すことが、私たちが最も大切にしていることです。豊富で上質な海産物は全国に届けられ、年間2,000万円を稼ぐ漁師もいるんですよ」と話すのは、現組合長、山崎義広氏だ。そんな重茂漁協にも、東日本大震災は壊滅的な被害をもたらした。自宅も漁船も失った山崎氏は、当時、副組合長を務めていた。 「現在の水準まで回復したのは、伊藤隆一前組合長のリーダーシップのおかげでしょう」。山崎氏は復興の歩みを、そう振り返る。流失した漁船は798隻。漁港施設10カ所、養殖設備1,310台、倉庫355棟が全壊し、ほとんどの漁港ががれきの山と化した。組合員やその家族の死者・行方不明者も多く出た。面積が大きい半島であるため、道路不通などによる被害も大きく、漁業の即時再開はほぼ不可能な状態であった。混乱の中、伊藤前組合長は被災からわずか3日後の3月14日に対策本部を設置。漁師がいち早く海に出ることを何よりも優先し、まずは漁船の獲得に向けて動き出した。 「船は漁師の飯茶碗です。海からお金を頂く漁師は、船が無ければ一瞬にして生活苦に陥ります。前組合長の即断即決に、組合員たちはすぐに同意しました」。一致団結した役員・組合員は、津波被害を受けなかった日本海側などの漁協へ中古船の買い付けに向かった。また、がれきの中や高台に残る定置船の調査・修繕、ロープなど必要な道具の収集にも奔走。その結果、5月の天然ワカメ漁では70隻の漁船が出漁し、ウニ、コンブ、アワビと、シーズンを重ねるごとに漁船数は増えていった。それでも、800隻の漁船の調達には約20億円が必要であり、すべての漁船を復旧させることはできなかった。そこで打ち出した策が重茂漁協では初の試みとなる「漁船シェアリング」だ。集まった漁船を浜ごとに配分して共同で乗船し、水揚げを平等に分配するのだ。「個々人の腕前が収益に反映される漁師たちの感覚を考えれば、抵抗があった組合員もいたでしょう。しかし、被害の大小で格差が生まれないようにしたいという思いから、会議で反対する者はいませんでした」。漁船がそろいだした2012年には、豊かな天然資源に育まれた漁協組合の伝統精神出漁を最優先した迅速な復旧活動01重茂漁業協同組合2030年復興への歩み[事業総収益(百万円)]4,4592010年2,202●3月 災害対策本部を設置●5月 漁船シェアリング方式で天然ワカメ漁を再開2011年3,121●3月 養殖ワカメが再開●8月 コンブ種苗生産施設の整備が完了2012年3,715●2月 サケ・マス生産施設の整備が完了2013年3,800●3月 アワビ種苗生産施設の整備が完了 「復興缶詰 味付けさば」の本格販売を開始2014年3,874●5月 重茂漁協の施設で育てた アワビ稚貝の放流を再開2015年3,853●1月 道路「主要地方道重茂半島線」着工2016年●6月 山崎義広氏が 代表理事組合長に就任2018年4,334●3月 漁港・道路以外の 漁協設備の復旧が完了2017年3,0004,0005,00002,0001,000組合を通じた漁獲量の制限や、山林を含む自然環境保全活動を通じ、永続的な漁業活動が可能になることを目指す。漁獲量のコントロールと自然環境保全で持続可能な漁業を被災地での再生・被災地への進出海外進出・観光誘致地域振興・スポーツ振興社員の働きがい新分野進出【目指していくゴール】※4月~翌年3月まで27

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