岩手・宮城・福島の産業復興事例30 2018-2019 想いを受け継ぐ 次代の萌芽~東日本大震災から8年~
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南三陸町の歌うた津つ伊い里さと前まえ地区で2017年4月にオープンした「南三陸ハマーレ歌津」。東日本大震災による津波で壊滅した伊里前商店街の復旧を目指して造られた、木造平屋2棟の商業施設だ。地元産の南三陸杉が使われ、木のぬくもりを感じられる柔らかい雰囲気は、建築家・隈研吾氏の設計によるもの。日用品店や飲食店など全8店舗が入居し、イベントの日には地元住民や観光客でにぎわう。「ここ伊里前地区は、江戸時代の元禄年間から宿場町として町並みがつくられ始め、漁業や林業を主産業として発展を続けました。被災前には約400世帯の集落に対して50軒以上もの商店や事業所が軒を連ね、多くの買い物客でにぎわっていたんですよ」と話すのは、南三陸ハマーレ歌津商店会会長の千葉教行氏だ。父親が創業した衣料品店「マルエー」を継ぎ、伊里前商店街で営業を続けてきた。伊里前商店街のあった南三陸町は、東日本大震災の被害が特に大きかった地域だ。死者619人、行方不明者211人(2018年11月30日時点)。住宅も約70%が壊滅。商店街も例外ではなかった。「町や商店街が津波にのまれたときは、自分の店や財産が失われていく実感を持てずにぼうぜんと見ているばかりでした。悲しいという気持ちすらなかなか湧いてこない。自分は幸いにもけがもなく避難できましたが、被災直後は将来のことがまったく考えられないような心理状態でした」。父親から受け継いだ店も自宅も失った千葉氏。気持ちを立て直すきっかけになったのは、2009年ころから店で扱っていた、背中に描かれた「南三陸」のロゴが特徴のオリジナルのジャンパーだった。「被災から4週間ほどたち、商売をやめることも考えていたある日のことです。他県より南三陸町役場に派遣されていた職員から『あの南三陸ジャンパーを買うことはできますか?』と聞かれました。役場や観光協会の皆さんがジャンパーを着て復興作業を行う映像がニュースでたびたび流れ、話題になっていたのです。すぐに作れる状態ではなかったのですが、『待っているから、ぜひ作ってください』と言われ、『私の商売は地域に必要なんだ。再開しなければ』と考えられるようになったのです。問屋とも連絡が付き、およそ1カ月後に商品をお渡ししました」。店の営業再開を決めた千葉氏。高台にあって津波を免れた親類の家へ移り住み、ガレージを改築し、仮店舗をオープンした。被災直後は考えられなかったという、被災後の生き方についても心を決める。「当時の私は60代後半で、たいていの人ならば仕事は再開どころか、もう引退という年齢です。しかし東日本大震災で被災したことによって、いま一度自らの仕事を通じて地域の役に立ちたいと考えたのです。伊里前商店街にいた店主たちとも『前と同じ場所で商店街を復活しよう』と話すようになりました」。にぎわっていた商店街が津波によって壊滅商売再開のきっかけは南三陸ジャンパー22南三陸ハマーレ歌津[SDGs]2030年に向けて2030年復興への歩み[来客数(人)]●12月 仮設の「伊里前福幸商店街」が完成2011年●5月 「伊里前しろうおまつり」を初開催2012年64,822●8月 津波で流された郵便ポストが 歌津地区に返還される2013年16,7842014年16,100●6月 株式会社南三陸まちづくり未来 を設立2015年9,864(4~12月)2016年353,000●3月 「南三陸さんさん商店街」オープン●4月 「南三陸ハマーレ歌津」オープン2017年116,692(4~9月)2018年化石産出地であることや南三陸の豊富な海産物を活用し、イベントなどを積極開催。町外からの観光客を呼び込み、歌津での観光需要や新しい雇用の創出を目指す。独自の要素を活用して地元のにぎわいに貢献する【目指していくゴール】※2016年度までは前身の「伊里前福幸商店街」のデータ被災地での再生・被災地への進出海外進出・観光誘致地域振興・スポーツ振興社員の働きがい新分野進出160,000240,000400,000080,000320,000津波・原子力災害被災地域雇用創出企業立地補助金※4月~翌年3月まで107

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