岩手・宮城・福島の産業復興事例集30 2021-2022 第二章、始動~ニッポンの次世代モデルを目指す
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株式会社インディゴ気仙沼カブシキガイシャインディゴケセンヌマ 繊維工業 藤村さやか氏[代表取締役] 宮城県気仙沼市新町2-1 080-6253-8161 https://www.indigo-ksn.com 2018年 500万円 2人 非公開東日本大震災後の2015年6月、宮城県気仙沼市でインディゴ工房を立ち上げる。2016年にタデ藍染めからインド藍と自家栽培のパステル染めに転換。2018年10月、株式会社インディゴ気仙沼設立。パステル染色を主力商材にする。◆町の中心部は津波で大きな被害被災からの復興途上で、水産加工業など多くの職場が失われていた。公園などに仮設住宅が建ち、母親たちの集える場所も少なくなった。元々賃金水準が低く、子育て中の母親が働ける職場が少なかった。◆タデ藍栽培には向かない寒冷な気候世界中でインディゴ産業が盛んなのは亜熱帯・温暖地方が多く、タデ藍栽培には寒冷な気仙沼は劣位であった。そこで、寒冷地を好む珍しい品種であるパステルの種子を取り寄せ、栽培に取り組むことに。染め上がった布のブルーからは程遠い色をしたパステルの溶液赤茶色をしたパステルの溶液に白い布を漬け込み、数分間染み込ませて取り出し、手で絞った後に布を広げると、黄土色から数秒で青みを帯びていく。パステル染めの手作業では、まるで手品のような色の変化が見られる。これは酸化作用によるそうだ。2013年、結婚を機に、夫の故郷である宮城県気仙沼市に移住した藤村さやか氏。それまで暮らしていた首都圏との生活環境の違いに戸惑いを覚えた。特に、夫婦が共働きでやっと生活できるほどしか賃金が得られない状況に驚いた。子育て中の母親が働ける職場はあまりに少なく、その状況を改善する必要性を痛感。自身も専業主婦として乳児を抱えている中で、何とか仕事をつくり出そうとしてインディゴ染めに行き着く。きっかけは、東日本大震災の復興支援で災害避難所に提供されて残っていたサラシ。東日本大震災では、気仙沼湾に面した中心部は津波で大きな被害を受けた。家を失い避難所暮らしを強いられた市民が大勢おり、全国から支援物資が届いた。そうした中で残っていたサラシを母親仲間で染めて、手拭いなどに製品化できないかと考えた。まずは2年間はがんばろうという思いで、仲間3人でスタートし、町の海沿いに小さな工房を構えた。子どもを遊ばせるスペースも設け、気楽に母親たちが集える空間を意識した。しかし、インディゴ染めの経験は誰も無く、インターネットや書籍で知識を仕入れて1年ほど試行錯誤したものの独学の限界を感じ、東京の先達に指導を仰いだ。本来なら、そこで修業しながら知識や技術を習得するところだが、子育て中の母親が何日も家を空けるのは難しく、短期の通いで勉強したという。助成金なども活用し、軌道に乗せていく。ストールやTシャツなど少しずつ販売商品も増えていったが、栽培していたインディゴ染めの染料となるタデ藍は温暖な気候を好むため、気仙沼の気候にあまり合わず、収穫量が増えなかった。また、一般に流通している染料植物を原料に使っても、少ない時間を持ち寄って利益を出そうとする子育て中の母親たちでは、競合に勝てないと判断。そこで、気仙沼70背景と課題お母さんたちの職場をつくり気仙沼ブルーを発信したい宮城県気仙沼市被災地の母親たちが立ち上げ被災地の母親たちが立ち上げ藍染めからパステルへ藍染めからパステルへ株式会社インディゴ気仙沼2323

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