岩手・宮城・福島の産業復興事例集30 2021-2022 第二章、始動~ニッポンの次世代モデルを目指す
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株式会社御前屋カブシキガイシャオンマエヤ 飲食料品小売業、宿泊業ほか 佐藤広樹氏[代表取締役] 宮城県牡鹿郡女川町黄金1-1 0225-25-7762 https://onmaeya.com/ 1918年 4億5,000万円(2020年度)、2億5,000万円(2019年度) 1,000万円 創業から103年の老舗スーパーで、宿泊業、介護事業なども展開。東日本大震災の津波で店舗を失うも、地域の住民の生活を支えようと2011年5月には移動販売を始めた。2020年3月12日に新店舗で営業を再開している。 0225-25-7764 65人◆御前浜の御用聞きとして創業会社の歴史は古く、創業は1918年のこと。御前屋という名称は、御前浜で御用聞きを手始めに事業を始めたことに由来する。1953年には株式会社御前屋を設立。◆事業を多角化して企業規模拡大1960年代から小売業としてスーパーマーケットを1店舗展開。一方で船舶仕込み事業も手掛け、1990年代に入ると宿泊業にも参入。多角化が進んでいた。◆宿泊施設を拠点に事業再開店舗兼事務所が津波で全壊したが、運営していた宿泊施設「海泉閣」は津波被害に遭っておらず、ここを拠点に2カ月後の2011年5月には、マイクロバスで総菜などの移動販売を始めた。2020年にオープンした「女川スーパーおんまえや」の新店舗株式会社御前屋という企業名は、御前浜という創業の地に由来する。1918年、地域の人々の御用聞きからスタートし、1950年代に入り小売業を開始。「女川スーパーおんまえや」を構えるに至る。会社としては、小売業のほか、食料や日用品を漁船に提供する船舶仕込み事業、マイクロバスを使っての移動販売、宿泊業と多角化を推進してきた。地域の「困った」を解決するさまざまな事業を展開していたことが、被災後に企業としての復興を進める上で大きな助けとなっていく。東日本大震災発災当時、現代表取締役の佐藤広樹氏は30歳。社長だった母親らを津波で失い、店舗兼事務所も津波の前にはひとたまりもなかった。突き付けられた「会社を畳むか、再建するか」という難問の答えを導いたのは、同い年の友人2人の存在だった。東日本大震災以前から御前屋の社員で、津波に飲まれながら九死に一生を得た木村明人氏と、阿部哲也氏(現総務部長)の3人で、避難所で再会したことが佐藤氏を奮い立たせ、再建への決意を大きく後押しした。御前屋は運営していた宿泊施設「海泉閣」が津波被害を逃れており、まずはここを拠点とした。被災直後は避難所としても開放した。2011年5月には早くも、日用品のほか、海泉閣の厨房で調理した総菜などの移動販売をマイクロバス2台で始めた。地域の人々の生活再建に少しでも役立てればという思いからだ。それを実現できたのは、事業の多角化を推し進め、宿泊業まで営んでいたからこそだ。行き先は町内にとどまらず、隣接する石巻市の牡鹿地区や雄勝地区に及んだ。8月末、海泉閣は避難所としての役割を終えたのを機に、復興事業に従事する工事関係者の貴重な宿泊施設へと役割を変えた。建築関係の仕事に就いていた阿部氏が佐藤氏に請われる形で入社したのは、その年の9月のこと。パソコン操作にたけ、総務を任された。東日本大震災から9年を経て町民待望の新店舗が開店御前屋が何より大事にするポリシーは「たった1人の要望であっても全力で応える」というものだ。阿部氏は「御用聞きか66背景と課題東日本大震災で肉親も店舗も失った若きリーダーが地域のためにと奮闘宮城県女川町被災直後の移動販売から店舗再建被災直後の移動販売から店舗再建事業拡大で「究極の御用聞き」を目指す事業拡大で「究極の御用聞き」を目指す株式会社御前屋22

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