岩手・宮城・福島の産業復興事例集30 2021-2022 第二章、始動~ニッポンの次世代モデルを目指す
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株式会社渡工テクノサイトカブシキガイシャワタコウテクノサイト 金属製品製造業 渡辺安治氏[代表取締役] 福島県伊達郡川俣町大字羽田字向1-1 024-566-2326 024-566-3045 http://www.watako.co.jp 1974年 500万円 2億6,900万円(2020年度)、2億9,000万円(2019年度)マシニング加工、フライス加工を軸として試作、部品量産を行っている。対応可能な材質は、アルミ、ステンレス、チタン、樹脂など多岐にわたる。2020年1月には新工場が完成し、より効率の良い作業が可能となった。 20人◆雇用の確保が問題に被災後、大きくのしかかったのが雇用問題。重要な作業を任されていた社員が抜けてしまったことで、残った従業員への負担が増えた時期が長く続いた。◆製造業の厳しい現実メーカーからの納期短縮、コストダウン要求が絶えない状況が続いている。大手企業からの受注を続けるためには、さらなる設備投資も必要となっている。◆人口減少の町守れるか東日本大震災後、人口減少が続いている川俣町。定住する人を増やすためにも、町の産業として機械加工分野を多くの人に広めていく必要がある。2020年Ⅰ月に竣工した新工場は川俣町と福島市を結ぶ幹線道路沿いに立地する代表取締役の渡辺氏(左)と常務取締役の伊達氏創業当初のオイルショックを乗り切った渡辺氏。だからこそ、2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災と短いスパンで世の中が混乱に陥った際も、冒頭の言葉を胸に、決して諦めることはしなかった。東日本大震災後は、家族が避難している中でも一人川俣町に残り、ガソリンの確保や機械の修理などに奔走し、地震発生から約1カ月後には工場を再稼働させた。沿岸部から離れた場所で津波の被害も無く、建物の倒壊なども免れたこともあり、いち早く動き出すことができたのも幸いした。しかし、当時17人いた従業員は13人に減少。「4人という数だけ見ればそれほどでもないと思われるかもしれませんが、作業の中心だった社員が抜けてしまったので影響は大きかったですね」と渡辺氏。それでも「正直、東日本大震災後に苦労したという感覚は無いんです」と口にする。工場があるエリアが避難指示区域外だったこともあり、仕事の受注が減少することが無かったのも大きい。人材の減少で作業42背景と課題福島県川俣町創業時の苦難を乗り越えた強い信念で被災1カ月後に工場を再稼働「世の中が大変なとき、苦労しているのはうちだけじゃない。だから、がんばるしかないんです」。こう語るのは、株式会社渡工テクノサイトの渡辺安治代表取締役だ。29歳のとき、「自分の発想でものづくりをして、多くの人に商品を買ってもらいたい」という夢を実現させ、1974年に会社を創業した。当時は第1次オイルショックの真っただ中で、3年は苦しい時期が続いたが、キヤノン株式会社製カメラのフィルム入れ部分のふたを研磨する仕事が会社を軌道に乗せたという。その直後に現在の主軸となっているマシニング加工に出合い、徐々に業績を伸ばしていく。過去にはF1のエンジン部品の加工も手掛け、今では防衛関連部品の加工も請け負うなど、大手企業からも注目されるようになった。生まれ育った町で50年続けた会社を生まれ育った町で50年続けた会社を後世へ残すためにも前向きな姿勢大切に後世へ残すためにも前向きな姿勢大切に株式会社渡工テクノサイト22

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