岩手・宮城・福島の産業復興事例集30 2019-2020 東日本大震災から9年~持続可能な未来のために
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「就農当初は、自分たちが楽しく米作りをしていればいいと思っていました。しかし東日本大震災後にさまざまな方と出会ったことで、地域の農業を守りながらいろいろなことに挑戦していきたいという気持ちになったのです」。そう語るのは、農地所有適格法人株式会社カトウファーム代表取締役の加藤晃司氏だ。大学卒業後、スポーツジムや建設業界で働いていたが、2009年に祖父から農業を承継する。「一度はサラリーマンになりましたが、元々、いずれは農業を継ごうという考えを持っていました。就農の話を妻の絵美にも相談したところ、『暮らしていけるならいいよ』と背中を押されました」(晃司氏)。晃司氏が農業を行う福島市北部地区は果樹園が多く、米作り農家は少ない。そのため、「祖父の代で米作りが終わると、この地域で米を作る人がいなくなる。自分がやるしかない」という思いもあった。肥料を購入していた店から農業アドバイザーを紹介され、米作りのノウハウを一から学んだ。中でも「種類ごとの違いを比べられるようになってほしい」と言われたことは今でも印象に残っているという。アドバイスを基に2種類の品種を必ず作り、肥料も異なる種類を試してみるなどして、味や生育にどのような違いが出るのかを徹底的に頭にたたき込んでいった。さまざまな手法を試しながら米作りをする今も、その教えは晃司氏の農業に対する考えの土台だ。就農から約2年がたったころに起きた、2011年3月の東日本大震災。加藤夫妻は自動車の中にいた。近くにあった塀が全部倒れ、信号も消えた。「何が起こったのか分かりませんでした」(晃司氏)。すぐに2人の子どもの無事を確認した。自宅にも大きな被害は無かったこともあり、東日本大震災の翌日に福島第一原子力発電所の事故が起きても、自分たちが危険にさらされている意識はなかったという。しかし放射線による被害を懸念したアドバイザーに勧められ、一家で会津若松市に避難を決める。絵美氏のおなかに3人目の子どもが宿っていたことも決断の理由だった。その後、群馬県や、親類が住んでいた滋賀県を転々とする。家族の安全を考慮しての判断だったが、「大げさではないか?」という心無い声もあったという。「当時、福島県外へ避難する際は被ばく検査を受けて了承が出なければ罹災証明書がもらえないこともあり、本当に大変でした」(晃司氏)。約2週間後に福島市に戻るも、これまでと同様に米作りができるのか、不安を抱いた。3月下旬は、例年であれば田植えに向けて苗を育てる作業の時期。国や福島県の説明会にも参加したが具体的な対応方針は出されず、参加農家から怒号が飛び交うなど会場は重苦しい雰囲気に包まれていたという。その後、米作りの許可が下りて農作業を再開したが、不安が取り除かれたわけではなかった。そして、心配していたことが起きる。地域の米作りを守るため脱サラして農業の世界へ2週間の避難生活を経験農業再開後も拭えぬ不安18復興への歩み[水田作付面積(ha)]205001030402030年[SDGs]2030年に向けておいしい米を作り続けるだけでなく、会社として成長するために米以外の生産も視野に入れ、魅力ある農業法人を目指す。米作りだけに頼らず農業の可能性を広げたい【目指していくゴール】2010年252011年●3月東日本大震災および福島第一原子力発電所の事故の影響で約2週間の避難28●公式ウェブサイトで 米のインターネット販売を開始2012年30●9月カトウファームのイメージキャラクター「mocoちゃん」完成2013年31●12月株式会社カトウファーム設立2014年36●1月農業生産法人に認められる2015年382016年40●11月「GLOBALG.A.P」取得2017年45●6月加藤絵美氏が「B-eat JAPAN」立ち上げ2018年45●南相馬市で米とホップを栽培する プロジェクトをスタート2019年45復興五輪新分野/新市場/海外進出観光振興/地域交流拡大事業承継被災地での再生・創業/被災地への進出97

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