岩手・宮城・福島の産業復興事例集30 2019-2020 東日本大震災から9年~持続可能な未来のために
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「被害の把握、再建計画の策定、資金の調達、販路確保、風評への対応、人材確保、従業員の心のケア……。東日本大震災後に行ってきたことを数え上げればキリがありません」。株式会社津田商店代表取締役社長の津田保之氏は2011年3月11日からの2年間を、実感を込めて振り返る。昭和初期の1933年に津田氏の祖父が釜石市で創業し、1956年に法人化した津田商店。大槌町の食品工場で、水産缶詰と水産調理冷凍食品を製造。2011年3月期の売上高は30億円を超えていたが、東日本大震災により大槌食品工場および第二工場と釜石市の本社が全壊。建物、機械装置、製品、原材料が流され、被害総額は9億1,300万円に上った。おぼろげにも再建が描けるような状況ではなかったが、約1週間後、東京都内の税理士法人とのテレビ会議ですべてを包み隠さず伝えたところ、再開を支持する声が上がり、事業継続を決断。事業計画を作ってバンクミーティングを開き融資を取り付け、前述のように最も多忙な時期を送ることになる。亡くなった人や避難のため辞めた人を除き、正社員は全員雇用を継続。協力社員は再開後の再雇用を約束して全員いったん解雇した。釜石市に事務所を借りてまず取り掛かったのは、流出した機械類を回収、洗浄して修理する作業だ。このとき、缶詰製造の心臓部ともいえるシーマー(巻き締め機)8台が、その重さのおかげで流されずに残っていたことが、事業再開の命綱となった。現在は製造を終了している機器のため、「シーマーが流されていたら缶詰事業は再開していなかったと思います」と津田氏。そのシーマーに刻まれた「昭和39年」という製造年が歴史を物語る。従業員が機械の整備に明け暮れる一方で、津田氏は資金を調達し、新工場建設に向けて準備を進めていた。特に苦しんだのは工場建設地確保。大槌町の元々の場所は新規建設が禁止され、町なかはやっとがれきを撤去した状態で、候補になるような場所は無かった。候補地を見つけて近隣住民向けに説明会を開くと、臭気や排水、給水の面で反対を受けてたびたび頓挫。5カ所目でやっと現在の場所にたどり着いた。グループ補助金も活用して工場を建設し、2012年4月に稼働を始める。待ちに待った再稼働。全国に駐在していた営業職が被災後も取引先との関係性を保ち続けており、工場が動けば従来に近い数の受注があると見込んでいたが、思わぬ壁が立ちはだかる。風評の影響だ。「福島第一原子力発電所の事故の風評が、まさか岩手にまで広がるとは思っていませんでした」と津田氏。収益の半分以上を占める冷凍食本社と工場が全壊絶望からの再起への道のり思わぬ風評を乗り越え被災前水準に売上高回復シーマー缶の中に食品を入れ、中を真空状態にしながら巻き締め、缶詰に仕上げる機械。被災当時、津田商店の工場には8台あり、そのすべてが流されずに残り、現在も使われている。2030年復興への歩み[売上高(百万円)]※4〜翌3月2,873●4月外国人技能実習生を初採用●11月自社製缶詰の開発プロジェクト始動2016年復興五輪新分野/新市場/海外進出観光振興/地域交流拡大事業承継被災地での再生・創業/被災地への進出102,0003,50001,5005002,5003,000[SDGs]2030年に向けて家庭での魚食離れが進む中、安心・安全な学校給食を通して子どもたちの健康を育む。その製造現場では機械化を進め、産業の基盤をつくる。子どもたちの健康を育むため安心・安全な水産加工品を届ける【目指していくゴール】グループ補助金2011年●3月釜石本社および工場が全壊釜石市内に仮事務所を設置872012年●4月本社・釜石食品工場が完成、操業開始1,7972015年●9月釜石食品工場がHACCPの認証取得2,8312013年2,6732010年3,0402014年2,775●売上高が被災前の水準に回復2017年3,0602018年3,3222019年●8月初の自社製缶詰「ほやバル」発売3,400(見込み)59

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