岩手・宮城・福島の産業復興事例集30 2019-2020 東日本大震災から9年~持続可能な未来のために
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農地所有適格法人株式会社舞台ファームの始まりは、約300年前にまでさかのぼる。創業家である針はり生う家が、仙台の地で農業を興したのが1720年。現在、代表取締役を務める針生信夫氏は15代目に当たる。1982年に家業を受け継ぎ、農業法人「有限会社舞台ファーム」を設立したのが2003年、翌2004年には株式会社となる。「針生家は15代続く農家ですが、新しいやり方を自由に実行できる、今で言うベンチャー気質の強い家風なんです。多くの農家は家族経営で家計が一つにまとまっているものですが、うちの場合は代ごとに収入を分離して家計を分けていたので、祖父も父も自分の好きなようにやらせてくれました」。そう語る針生氏は1982年、宮城県立農業講習所(現宮城県農業大学校)を卒業し、家業を継いで就農。自分なりに変えた方がいい、参考にした方がいいと思ったことをどんどん試して、独自の販路を開拓し、農産物の販売ルートを築く。そしてついに、2002年に売上高1億円を達成する。「昔で言う豪農になりたいと思っていたんですよ。日持ちせず生産量も不安定な野菜という商材で、ノルマや価格を自分でコントロールできないのはやりにくく、それで独自の販路をつくれないか、いろいろ試していましたね。生産から加工、販売までを自分で手掛ける、今で言う6次産業を当時からやっていたわけです」。農業法人として舞台ファームを設立した後は、カット野菜を大手コンビニチェーン向けに納品しながら、品質管理などのノウハウを蓄えていった。本社工場を竣工し、食品卸業を手掛けるグループ会社を設立するなど、舞台ファームの事業は順調に拡大していった。しかし、2011年にあの東日本大震災が起こる。被災と避難の様子を針生氏はこう振り返る。「自社の農地が津波の被害を受けて、備蓄米が流されてしまいました。塩害に遭って機械類も壊れてしまい、まさに経営基盤が破壊されてしまったんです」。地震が発生したまさにその時、針生氏は講演で花巻温泉に向かっている途中だった。車載テレビに映った中継映像で針生氏が見たのは、津波が自分の地元を飲み込んでいく光景だったという。「津波に飲み込まれていく民家は、一軒一軒名前を知っているお宅ばかりでした。これは大変なことになったと急いで引き返しましたが、降雪や渋滞なども重なって、ようやく自宅に着いたのは12日の午前4時ごろでしたね」。電気は止まっているので工場は稼働できなかったが、カット野菜やプロパンガス、野菜を洗うため仙台の農家としては異例の売上高1億円を達成経営基盤が崩壊するも被災者支援に奔走する6次産業農業・漁業(1次産業)と加工(2次産業)、販売(3次産業)を一つの事業者が手掛けること。地場産業のブランディングや経営の多角化などに用いられる。06復興五輪新分野/新市場/海外進出観光振興/地域交流拡大事業承継被災地での再生・創業/被災地への進出2030年復興への歩み[売上高(百万円)]※7〜翌6月1,1622012年●福島県浪江町内に4.8haの農地を借り、 自社による栽培をスタート2019年1,5003,00001,0005002,0002,500[SDGs]2030年に向けて日本農業の課題である後継者不足や人手不足を解決し、農業をAIやICTなどのテクノロジーと融合させて、次世代の農業の姿を模索する。農業が抱える課題を解決し未来の農業の姿を描く【目指していくゴール】2011年●3月東日本大震災による津波で備蓄していたコメが流出するなどの被害1,0052013年●アイリスオーヤマ株式会社との 共同出資で「舞台アグリイノベーション 株式会社」設立1,4482014年●「舞台アグリイノベーション 亘理精米工場」竣工2,0772015年●農業の課題解決「アグリソリューション」 を目的とした「アグリ再生部」を新設2,225●365日の自社物流網が 関東エリア集荷へ拡大2016年1,9692017年●茨城県境町と「グリーンカラー (農業経営者)育成支援」を開始2,4552018年●福島県浪江町と 農業に関する包括連携協定を締結2,598東日本大震災事業者再生支援機構の債権買取41

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