岩手・宮城・福島の産業復興事例集30 2019-2020 東日本大震災から9年~持続可能な未来のために
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[SDGs]2030年に向けて「復興芝生」の生みの親である東日本復興芝生生産事業株式会社代表取締役の大坪征一氏。会社を立ち上げたのは2013年、73歳のときだ。現在は79歳となる大坪氏に事業立ち上げまでの道のりを聞いた。大坪氏は元々、仙台市若林区にあるスポーツ施設の設計・施工を主事業とする株式会社オオツボスポーツの代表取締役社長でもある。高校、大学と学生時代にとどまらず、社会人でもラグビーで活躍。ポジションはチームの司令塔・スタンドオフで、今も40歳以上のメンバーで活動するラグビーチーム「仙台ゆうわくラグビーフットボールクラブ」でプレーする、生粋のラガーマンだ。「けがはいつものことですよ。9月にもゲーム中に左まぶたを切って、何針も縫いました」と豪快に笑う。大坪氏がオオツボスポーツを設立したのは1977年。物品販売でスタートしたが、程なくテニスコートなどスポーツ施設を作ってほしいという相談を受けるようになり、事業の中心をスポーツ施設の施工に移した。仙台市内の公立学校を中心に需要は強く、社業は順調に発展。頼もしい息子2人が家業に入り、少しずつ後継者へと移譲を進めていたころに東日本大震災が起こった。発災の翌日、大坪氏は山元町の実家に赴くと、そこには変わり果てた故郷の姿があった。「何も無くなってしまったんだな、と涙も出ませんでしたね。ただ漠然とですが、ここに新たな産業が必要だということも感じました」。それから1年余りがたった2012年4月、大坪氏は実家跡地の200㎡の敷地に芝生(ノシバ)の苗を植えてみたところから、まさに事業は芽生える。「津波の影響で土地に塩が入ってしまったわけだけど、芝生はその塩に強くて、砂地でもしっかり育つ。これはいけるんじゃないか」と、芝生栽培に興味を持った。そして、本当にこの地が芝生の生育に適しているのか、実験を始める。専門家をはじめ各方面に相談しながら、芝生の成長の様子を確認。確信を得て、2013年4月には賛同者5人と共に、東日本復興芝生生産事業を立ち上げた。2013年秋には、「復興芝生」を商標登録した。東日本復興芝生生産事業が生産する芝生が東日本大震災の被災地で生育したものだと誰でも分かるように、という思いから付けた名前で、狙い通りネーミングの効果は抜群だった。「東日本において芝生栽培の聖地は茨城津波被災地で芝生栽培山元町の新産業に育てる「復興芝生」を商標登録豊田スタジアムで採用復興芝生東日本復興芝生生産事業が東日本大震災の被災地で栽培した芝生に対して使える登録商標。被災地産であることを的確に伝えることを目的に、2013年秋に取得した。オオツボスポーツ日産自動車株式会社に入社後、社会人ラグビーでも活躍した大坪氏が、現役引退後に地元の宮城県へ戻り、37歳で設立した会社。スポーツ施設の設計・施工が主事業。2030年復興への歩み[芝生生産の農地面積(㎡)]東日本大震災で大きな被害を受けた山元町で、芝生の栽培面積を広げていく。将来的に100万㎡まで拡大する予定。津波をかぶった土地に芝生を植え事業を拡大しながら緑を再生※1〜12月200●4月実家跡地の200㎡に芝の苗を植える2012年6,000●8月「復興芝生」を初出荷し、記念式典を開催2014年35,0002015年60,0002016年100,0002017年150,000●5月豊田スタジアムに「復興芝生」を本格導入2018年165,000●6月ラグビーワールドカップに備えて豊田スタジアムの芝生を張り替え●10月宮城スタジアムで「復興芝生」への張り替え作業実施2019年200●4月大坪氏をはじめ有志6人で東日本復興芝生生産事業株式会社発足●10月「復興芝生」を商標登録2013年2011年●3月大坪氏が実家のある山元町の被災状況から新産業創出を決意【目指していくゴール】復興五輪新分野/新市場/海外進出観光振興/地域交流拡大事業承継被災地での再生・創業/被災地への進出0282,500165,000055,00027,500110,000137,50023

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