K・T 氏
当時39歳、アパート経営、A市在住。
自宅、アパート、農業用倉庫が全壊した。
当時39歳、アパート経営、A市在住。
自宅、アパート、農業用倉庫が全壊した。
実家が震災前から賃貸業をしており、自分もアパートを建てて経営を始めた矢先、津波で全壊となった。市の臨時職員として働き、再建に関わる情報を収集しながら、宅地建物取引士の資格を取得。その後、以前と同じ場所で自宅とアパートを再建した。過疎化が進み、空き地が増えていく地元を何とかしたいと思い、不動産事業を始めた。
震災の前年の6月に退職して、自分で事業を起こそうと考えていたときでした。以前は東京の電機メーカーに勤めていたのですが、平成16年(2004年)にUターンで職業訓練団体に転職し、震災の前年までそこの団体職員をしていました。その傍ら、アパートを建て、個人事業主として副業的にアパート経営を始めたのですが、その2年後に震災があり、津波で流されてしまいました。隣にあった自宅と農業用倉庫も全壊です。農業用倉庫は、父が農業で使う農機具をしまっていましたが、2階が貸家になっていて、K家では22年前から賃貸業をしていました。
父と一緒に自宅にいました。2人で防災センターに避難し、そこで津波に遭いました。全身がずぶぬれで周りが水没したのと、暗くて動けなかったので、助かった人たちで体を寄せ合いながら暖をとり一晩を明かしました。次の日も水没のために孤立状態で、私だけ靴を履いていたので梯子で屋上に上り、周りの様子を見ながら救助を待っていたところ、夕方に自衛隊と海上保安庁の救助ヘリが来て救助されました。Bのサッカー場に搬送され、そこから暗い中を歩いておじの家を訪ねました。父も防災センターにいたので、助かったことは分かっていたのですが、家族全員が会えたのは1週間後で、地震のときに出かけていた母と姉と、おじの家で会うことができました。
いえ、仮設住宅に入るには避難所に行かないと駄目という話が聞こえてきたので、避難所に移動しました。そこで1カ月ぐらい過ごして、抽選を経て4月25日に、みなし仮設の雇用促進住宅に家族4人で入りました。その後、9月に世帯分離して、私だけ地元の仮設住宅に移り、家族はCの仮設住宅に移りました。ただ、父は元々大工で、建設関係の人から手伝いを頼まれた関係で私の仮設に来たので、実質的には2人暮らしでした。
7年ぐらいです。そこの地主が建物を建てるということで解体撤去になり、平成30年(2018年)に同じ町内のプレハブ仮設に移りました。その後、令和2年(2020年)に自宅とアパートを再建しました。前の自宅があった場所が区画整理され、土地の引き渡しは済んでいましたが、建築業者の順番が回ってこなくて、結果的に9年、仮設住宅に住んでいました。
前の家は、平成7年(1995年)に父が自分で建てた昔ながらの木造瓦屋根の家で、壁が出っ張っていたりへこんでいたりして面が多かったのですが、住宅メーカーから面が少ない真四角の家の方がコストが安いと聞いて、真四角にしました。使える制度は極力使おうと、太陽光発電の補助金を使って太陽光パネルと蓄電池も付けました。当初は自宅を先に再建しようと思ったのですが、アパートも並行して建てることでコストを下げてもらいました。
そうです。そこの先代の社長に父がお世話になっていて、前のアパートもそこにお願いしたので、今回は自宅も含めてお願いしました。
自宅と農業用倉庫、アパートの三つが流されたので、それぞれの保険と、住宅再建支援金、貯蓄、あとは住宅ローンです。
ばらばらです。自宅は父の付き合いで農協の長期保険で、倉庫は掛け捨ての保険でした。アパートは不動産屋から紹介された民間の損保保険で、事業用の補償を付けていました。全て地震特約を付けていたので、前のアパートのローンを全て返済できました。
宅地復旧支援補助金と、県産材活用支援、市産木材活用住宅推進事業補助金、バリアフリー支援、あとは自宅ローンの利子補給です。
利子補給を使うために、アパートは借入なしで、自宅だけローンを組みました。自宅とアパートの敷地は元々一つだったのですが、それを後から二つの区画に分割して、自宅の方だけ抵当に入りました。銀行と相談してそうしたのですが、手続きは少し面倒でした。
そうですね。実は自宅とアパートの図面を引いたのは父なのですが、私は宅建の資格を持っていて、土地に関する知識がありました。
平成24年(2012年)に、市の被災者支援制度を利用して取得しました。実は避難所にいたときに、市役所の臨時職員の求人を見つけて履歴書を送り、雇用促進住宅に入った後に採用が決まって、5月から仮設住宅の窓口に配属になったのです。その1年後の更新のときに、市の被災者支援で6カ月間、宅建の資格取得の勉強をしながら給与がもらえる制度があると知り、それを利用しました。工業高校出身なので若い頃からいろいろな資格の勉強をしていて、今では40以上の資格を持っているのですが、このときは宅建の資格を取って復興事業に役立てようと思いました。20人受験して、3名が合格しました。
はい。そもそも市役所の臨時職員に応募した理由も、市役所なら一番早く情報を得られるだろうと思ったからです。市役所臨時職員を1年、被災者支援制度(派遣社員)を約1年、D町役場で任期付き職員として、仮設住宅と生活再建支援金の窓口である被災者支援室に5年勤め、その中で被災者生活再建支援制度などの情報も得ることができました。
その後、市役所建設課任期付き職員の3年を含め、公務員として8年ほど働き、給与をもらいながら勉強し、被災者生活再建支援金や義援金も受給して自宅とアパートを再建できたので、仕事と住まいの支援制度があるというのは、とてもありがたかったです。
私は宅建の勉強をしたおかげで区画整理についての知識があったので、説明をすんなり受け入れることができましたが、他の住民の方はそこまで詳しくないので、中には「私たちも津波被害を受けたのだから、高台に防災集団移転できないか」と言う人もいました。実際問題、私たちの地区は世帯数が多いので、防災集団移転は現実的ではありませんでした。ただ、高台へ行きたいという一部の人には、そういう選択肢があってもよかったのではないかと思います。区画整理の人は区画整理しか駄目というのではなく、制度の垣根を越えて、防災集団移転もできるとよかったかなと思います。
そうですね。工業高校卒業後、A市には就職先がなかったので仕方なく東京に出ましたが、戻って地域のために何かしたいという思いはずっとありました。働きながら大学の通信教育で法律を学び、32歳のときにUターンして職業訓練団体に転職しました。
その後、震災に遭い、自分の能力を生かして復興に尽力したいと思って宅建の資格を取りました。資格があるだけでは駄目なので、経験を積むためにE市で住宅修繕などの賃貸管理業務に従事しました。E市にいながら、毎週日曜日にA市に戻って起業塾の講座を受ける中で、小規模事業者持続化補助金や創業の補助金のことを知りました。令和4年(2022年)10月いっぱいでE市から引き揚げて、翌年の3月まで簿記を勉強し、事業者持続化補助金に応募するため、5月に個人事業主として不動産事業の開業届を出しました。今年の2月2日に宅地建物取引業の免許証が交付されて、本当に営業を始めたばかりです。
人が減って空き地が増え、手入れがされず荒れていっています。そういった土地の利活用を促し少しでも空き地を減らしたいと思ったのが、この仕事を始めたきっかけです。まだ一人で事業をしていますが、今後、人を増やしながら、地域のために力を尽くしていきたいと考えています。
福留 邦洋(岩手大学地域防災研究センター)