O・T 氏
当時50代、A商店代表取締役、B市在住。
自宅は被害なし。A商店の工場が津波の被害を受けた。
当時50代、A商店代表取締役、B市在住。
自宅は被害なし。A商店の工場が津波の被害を受けた。
イカを中心とした水産加工業を営む。事業所の再開に向けて発災直後から奔走し、1カ月後の4月11日には協力会社の敷地で事業を再開。グループ補助金を受けて、翌年5月には新工場の操業を始めた。
工場はほぼ全壊でしたが、当時工場にいた65人ほどの従業員はみんな逃げて無事でした。工場は海の近くに建っていたのですが、ちょっと走れば高い所に大きな道路が走っていて、近くの中学校の体育館に避難しました。
会社の車を中学校の校庭に避難させて、その日はみんな小学校の体育館に泊まりました。私の家は山の上にあって無事だったので、いったん家に帰って、ありったけの食料をリュックに詰め、体育館に戻ってみんなと一緒に過ごしました。わが社の様子を見に行ったのは翌週の月曜日ぐらいだったと思います。
当日は何も考えられませんでしたが、従業員が避難している避難所を巡りながら今後のことを考えていました。すると、B市内で奇跡的に浸水を免れた会社がC地区にあって、そこは弊社の協力会社だったのです。その会社の代表者に避難所でばったり会って、「これからどうしますか」と聞いたら、「A商店次第です」と言われました。それで、工場を見せてもらったら、何とか物を作れるだろうという状況だったので、発災から1週間後には再開を決めました。
準備できたら再開とするといつになるか分からないので、1カ月後の4月11日を再開の日にしようと決めてしまって、そこからいろいろな活動を始めました。預けていた原料の無事を確認し、裁断機を新たに購入して、避難所にいる従業員に「仕事はできるか」と声をかけて何人か集めました。それで実際、4月11日に再開することができました。
従業員に関しては、安否確認をした上でみんなに集まってもらい、何人かを残していったん解雇すると伝えました。解雇すれば失業手当を早くもらえるはずだと考えたのです。
4、5人だけは解雇せずに営業などに残して、あとはみんな解雇したのですが、A商店ではなく新たな外注先のCの会社が採用する形で雇ってもらったのです。作るのはCの会社で、うちは営業して仕事を取ってくるという形です。
当面は手持ちの資金で始めました。機械はリースにしたと思います。特に大きな工事はしていません。
取引金融機関2行の他に、当時お世話になっていた東京の税理士に相談しました。
発災後しばらくは電話が通じなかったので、2日後の日曜日にヒッチハイクしてD市まで行きました。D市に行くと電波が通じましたし、食料も調達できました。
私は毎日、夜は家に帰っていました。電気が復旧した発災1週間後以降は、会社にあるコンピューターを自宅に運んで、居間を事務所にしていました。4月11日以降はCの会社の2階に事務所を移し、電話もつなぎました。
震災前の量をいきなり作れるわけがないので、売上の半分を占める学校関係を優先して出荷していました。やはり学校は国産でないと駄目だという市町村が多かったので、そうした販売先を優先しました。
別の会社で物を作って売るスタイルもありなのだなと思って、弊社の商品を作ってくれる工場を探そうと考えました。つまり、ファブレス(工場を持たない)メーカーを目指したのです。
ただ、候補地が遠かったのと、いまひとつしっくりこなかったというのもあって難しいと思っていたら、5月ごろにグループ補助金の支援メニューが国から出されました。それで、周りの同業者と一緒にやろうという機運が高まり、やはり工場を作るべきかなというふうに気持ちが変わっていきました。グループを結成するまでにはそれほど時間がかからなかったと思います。
グループ補助金は共同で建物を造るわけではなく、何かしらの結び付きがあるグループを作って、それぞれの会社を再建するための補助金です。
グループ補助金を受けて、工場ができたのが平成24年(2012年)4月で、その翌月に新しい工場が再出発したので、それまでは前の外注先の工場にお邪魔していました。新しい工場が現在の工場で、震災前と同じ場所にあります。津波が来たらどうするのかという意見はありましたが、どんなに強固なものを作っても自然には逆らえないし、3・11でもみんな逃げて無事だったので、ソフト的に避難できればいいから前の土地でいいだろうと考えました。
Cで勤めていた数人の従業員は、Cの工場を辞めてうちに来てもらいました。そして新たに二十数名の社員を雇用し、5月の操業開始時は32名でスタートしました。
現在は少し減って25名が働いています。年配者が定年を迎えたことによる自然減ですが、生産性が上がって、カイゼン活動も積極的に行っていたので、補充しなくてもやっていけそうだと判断しました。年齢層は10代から70歳手前までと幅広く、一番若い人は外国人です。
現在は6人です。震災前から中国の実習生を雇用していましたが、震災を機にいったんみんな帰して、しばらくは日本人でやろうと思っていたので、工場再開時はいなかったのです。でも、若い人を募集してもなかなか集まらないので、4~5年前ぐらいから実習生を入れることにしました。
震災が起きて売上が半分以下になり、今は売上を毎年徐々に増やしながら震災前の約9億円まで目指していたのですが、コロナ禍でガクンと落ちました。コロナが落ち着いてきたらまた伸ばそうと思っていたら、今度は原料が不調で高騰し、またそこでガクンと落ちてしまいました。コロナと原料不調の二つがマイナス要因となっています。
プラスになったのは、震災前からトヨタの生産方式を勉強してきて、カイゼン活動が進んだことです。それから、グループ補助金の他に水産庁の復興水産加工業等販路回復促進事業の補助金を3回ほど頂いて設備投資することで、省人化を図ったり、効率のいい設備を入れたりすることができました。この二つで生産性が上がり、震災前よりも利益が出る体質になったと思います。
しました。震災で原料が流されてしまって実質債務超過になっていたのですが、買取で債務免除してもらって債務超過から脱することができたので、非常に楽になりました。ですから能登でも、被害が大きな会社にはそうした金融的な援助があるといいと思います。
グループ補助などの補助金なしでは再建は非常に難しいので、そうした支援メニューは国からたくさん出てくればいいと思うし、そうしたものをうまく活用してもらえばと思います。
運が良かったと思うのと、あとは早く決断することだと思います。ずるずるやっていたら今はなかったかもしれません。工場が全部流されてしまったので、普通は諦めると思うのです。でも、やらないといけないと自然に思うようになりました。負債をたくさん抱えているので冷静に考えると無茶なのですが、やれば何とかなるものだなと思います。
福留 邦洋(岩手大学地域防災研究センター)