被災者の証言

被災者の証言

K・A 氏

K・A 氏

当時50代で、A市在住。
ホテルに勤務。自宅は流失した(ローンは完済)。

仮設住宅生活を経て平成28年(2016年)に自宅を再建した。ホテル退職後は、震災語り部を行う団体「くぎこ屋」を立ち上げ、精力的に活動している。

発災当日の行動

地震が発生したときはどうされていたのですか。

朝、ホテルでお客さまをお見送りした後、この日は月に1度の通院日だったので、A市内のクリニックの駐車場に車を入れようとしていたときに地震に遭いました。程なく津波に伴う避難指示が出たので、自宅に向かい、母親を連れて公民館に避難したのですが、津波が来て「みんな逃げて」という悲鳴に満ちた声が聞こえ、私たちはさらに高い場所を目指してB中学校に避難しました。ずっと公民館にいたら亡くなっていたと思います。

当初は校庭にテントを張って過ごしていたのですが、16時半ごろ体育館の安全が確保されたので、一般の方が約300名、中学生約300名が体育館に避難しました。私は当初から避難所の運営に当たり、体育館の館内を6ブロックに分けて地区ごとに入ってもらうようにしました。

仮設住宅へ転居

避難所を出られたのはいつですか。

私たちが市内のC仮設住宅に移ったのは8月7日で、避難所の中では一番最後だったと思います。入居者を決めるのはくじ引きで、複数回当たる人もいれば、私のように4~5回目でようやく当たる人もいました。ですから、希望を出して外れた方々はいったん後に回すなどして、できた仮設住宅からとにかく皆さんに割り振りしてしまった方がいいと思います。8月12日には学校再開に向けて校舎を引き渡さないといけないといけなかったので、決まらなかった人は別の避難所に移りました。

B以外でみなし仮設的な場所を探すという選択は考えなかったのですか。

D市はもっと大変な状況だったので無理でしたし、私は当初、避難所運営をしていたというのもあったので、A市以外の仮設やアパートを探すという選択肢はありませんでした。

勤務先を退職、くぎこ屋を立ち上げ

震災後、職場とコンタクトが取れたのはいつ頃ですか。

私は当初、「行方不明者」扱いになっていたのですが、会長の運転手をしていたこともあって発生3~4日後に会長に連絡しました。その後、勤務先からは営業を再開するのでとにかく出てくれという話があったのですが、避難所運営を優先したいので出勤できないと伝えました。勤務先ではサービス講習の勉強会を開いていて、その分の6~7割の給料を出していたのですが、私は受けられなかったので、給料は出ない状況でした。そして、当時は車もなかったので通う手段もなく、仕事を辞めざるを得なくなりました。

勤務先から、戻ってきてほしいという連絡があったのはいつですか。

3月末ごろだったと思います。ただ、その時点で私は入院していました。3月下旬、E病院に救急車で運ばれたのです。避難所運営で疲弊していたのだと思います。下血して緊急輸血を受けました。本来は1カ月以上の入院が必要だったのですが、重症患者がどんどん運ばれてくるので5日間で退院しました。

それで、ハローワークに行ったのですが、失業手当がF県では出るのにG県では出ないため、書類上は自己都合退職になってしまったのです。それこそ裁判にかけることも検討したのですが、なかなか難しいだろうということで、退職金だけをもらう形になりました。

その後、平成24年(2012年)9月からNPO法人遠野まごころネットに就職しました。そこで大学生ボランティアに被災地の状況を伝える仕事をしたのが、語り部になるきっかけとなりました。そして、まごころネットに起業支援金制度があるので自分で事業を立ち上げてみないかと声をかけられ、100時間のカリキュラムを受けて200万円の事業採択を受け、その資金を元に「陸前高田被災地語り部 くぎこ屋」を平成25年(2013年)3月に立ち上げました。

最初の仕事は、47都道府県から学生たちが被災地を訪れる「きっかけバス」での講演でした。公益社団法人の「助けあいジャパン」が実施している事業で、1日あたり3県ほどの学生に対して演説をおこないました。まごころネット経由の仕事が多く、まごころネットは地元の語り部をしてくれる人材が欲しかったし、私はお客さんが欲しかったので、ウィンウィンの関係でした。

事務所はどうされたのですか。

起業支援金制度の200万円を使って、月3万5000~4万円ぐらいでプレハブを一つ借り、それを元の自宅があった場所に置きました。プレハブは友人の設計屋(H設計)に紹介してもらって、持ってきてもらいました。その前にはA市でトイレを設置し、トイレの前にはBの物産協会がお土産屋さんを作りました。すると、バスが常にそこに寄るようになりました。バスが来た所で語り部をしていたので、そこだけでも仕事になるような状態になっています。

語り部の収入の見通しが立ったのはいつ頃からですか。

3年目ぐらいまでは仕事がどんどん入ってきて良かったのですが、ボランティアが減ってきて仕事が少なくなり、2年目のとき、独立当初から雇っていた従業員1人に、別の勤務先を紹介した上で辞めてもらうことにしました。地元の従業員を雇っていれば補助金をもらえたのですが、I町の人だったので稼いだお金で回さなければならなかったからです。

自宅再建を選択

自宅を再建しようと考えたのはなぜですか。

仮設住宅から出るときに、災害公営住宅と自宅再建という選択肢がありました。まごころネットの人や阪神大震災の経験者から話を聞くと、災害公営住宅は自分のものにならないし、3年後から家賃がだんだん高くなるのにその説明が十分ではなかったので、公営住宅に入った人の中にはあれでだまされたと思っている人は非常に多かったと思います。だったら、借金をしてでも自分で建てた方が後々いいだろうということで自宅再建を選びました。

これは能登にも言えることですが、地方は戸建て住宅の方がいいと思います。地方はクルマ社会ですから人数分の車が必要ですし、集合住宅で は畑を確保できません。Bは物々交換で成り立っていた町であり、みんなばらばらの暮らしになると、年金生活者はかなり厳しいし、孤独死もどんどん増える事になるでしょう。

場所はどのようにして決まっていったのですか。

発災から3年目ぐらいでしょうか。かさ上げが始まったのですが、自分たちの土地がどうなるか分からないという状況になりました。場所は仮設と同様、地区ごとに役所任せなのですが、当初は日当たりも水はけも悪い場所で、引き渡しの2~3週間以上前に、別の場所に変わった方がいいのではないかと市が言ってきました。では変えようということになり、中学校の体育館の後ろに決まったのです。

しかし今度は、崖崩れの恐れがあることが分かってまた移動になり、とにかくどこか高台で探してもらうことになり、当初は公民館用地だった場所が空いたので、そこに決まりました。ですから、場所的には最高の場所なのですが、土地が決まるまでは結構大変でした。自宅の他に事務所も移転先を変えないといけなくなったので、建設が遅れた分は補償もしてもらいました。

再建資金について

再建資金はどうされたのですか。

場所が二転三転したので、予算も変わっていきました。国からの支援金は200万円出ましたが、建物やその周辺を含めて1600万円がかかるので、母親にある程度出してもらったほか、あとは私が借り入れをしました。市から300万円を無利子無担保で借り、足りない分は農協から借りました。当初は県産木材使用の補助金を使おうかと思ったのですが、その方が高くついて意味がないのでやめて、バリアフリーに関する補助金は使いました。そうした情報はほとんどH設計から教えてもらいました。

保険には入っていなかったのですか。

普通の火災保険には入っていましたが、地震保険には入っていませんでした。Bの人たちはほとんどそうだったと思います。農協は建更を結果的に使えたので、農協から一番お金が落ちたというのは有名でした。生活再建支援金はどちらかというと生活費向けで、車を購入したりしました。

住宅再建のいろいろな補助制度に関して、市の担当職員は理解されていましたか。

担当者は市の人間ではなく、県外からの応援職員でした。窓口が補助金によってそれぞれ違うので、何回も役所に行かないといけないのが一番大変でした。私は友達に設計屋がいたので良かったですが、そういう人がいないと本当に大変だと思います。やはり1カ所で全ての用が済むような形にしないといけないと思います。デジタル化というのであれば、窓口のワンストップを進めないと意味がないのではないでしょうか。

実際に施工した工務店はH設計さんの紹介ですか。

そうです。とにかく安く造ってほしいということと、冷暖房はきちんとしたいということをお願いして、断熱工法で安くしてもらいました。

情報面なども考えると、地域の設計事務所や工務店の役割は大きいのでしょうか。

大きいですね。地元の工務店が地域の状況を一番よく知っているので、そうしたところを窓口にした方が絶対にうまくいきます。

震災を乗り切る上でのポイント

震災を乗り切る上で何が大事だったのでしょうか。

やはり正しい情報を持っている人が有利です。デマもたくさんあるので、自分が知らないことでも餅は餅屋で、詳しい人の話をちゃんと聞いて手伝ってもらうことです。行政に関しては、ワンストップで全てが済むような形にしていかなければなりません。行政は横のつながりがとにかく悪過ぎます。デジタル化したのですから書類を出さなくても済むような、ちゃんと情報が届くような横のつながりをきちんとつくることが大事です。それから、地域の再建を図るときには地元の人の意見をきちんと聞いてまちづくりをしないと恐らく失敗すると思います。

聞き手

福留 邦洋(岩手大学地域防災研究センター)

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