被災者の証言

被災者の証言

S・N 氏

S・N 氏

当時40代で、A市在住。
B酒造に勤務。自宅(戸建て)は流失した。

発災から1カ月ほどは妻の勤務先である福祉施設(C園)に妻、子ども2人とともに避難。その後、D町の仮設住宅、A市の県営災害公営住宅を経て、令和2年(2020年)に自宅を再建した。

発災直後の状況

発災当日の状況について教えてください。

私はたまたま外回りでEの酒屋にいたときに地震に遭い、お酒が散乱している中、そのまま帰るわけにいかないので、しばらくお店の片付けを手伝いました。慌てて帰っていたら私も津波の巻き添えになっていたと思います。子どもたちは学校にいて先生の指示で避難し、妻も高台の職場(C園)にいて無事でした。

私たち家族は、災害など何か大変なことがあったとき、妻が看護師をしているC園に集まろうと事前に決めていました。夜9時ごろ、Eから何とか戻ることができた私は、C園で妻、子どもたち2人と再会できました。このとき、私の両親の姿がなかったので、津波にやられたのだなと覚悟しました。C園での避難生活は1カ月ほど続きました。

お仕事はどうされていたのですか。

会社(B酒造)との連絡は、約2週間後に電気が復旧して携帯電話が通じるようになり、ようやくできるようになりました。しかし、会社はすっかり流されてしまい、売る物は何もない状態だったので、8月ごろまで待機という感じでした。その間は会社から給料をもらっていました。

C園での避難生活の間はどうされていたのですか。

元気はありましたし、大型免許を持っていたので、発災2週間後からF温泉(当時はG荘)の送迎ボランティアをしていました。社長が同級生だったものですから、自分たちができることで何かしたいという気持ちから、避難所をバスで回って被災者をお風呂まで送迎していました。

避難所では、親がまだ見つかっていない子どもたちと遊んだり、毎日出るごみを野焼きしたりしていました。

D町の仮設に入居

C園から次の避難先にはいつ頃移動されたのですか。

C園から仮設住宅に入ったのは5月の連休あたりでした。D町のH寺敷地内にあった木造の仮設住宅です。通常の仮設住宅は長屋で地続きだったのですが、D町の仮設住宅は一戸建てでした。4~5倍の競争率でしたが、当時、娘が中1、息子が小6だったので、親の心情としては死者が多く出たIから何とか離してやりたいと思い、あまり被害がなく、インフラも整っているD町で生活することにしました。

仮設住宅ではどのような生活でしたか。

7年ぐらい住んだのですが、ずっと楽しかったですね。これはびっくりされるかもしれないのですが、木造仮設のスポンサーが坂本龍一さんだったのです。私たち一家のところに来ることになって、娘がピアノを習っていたので、「戦場のメリークリスマス」をサプライズで演奏してくれて、そこから交流が始まりました。翌年、地元でピアノコンサートがあったときにも楽屋に招待されたり、ずっと交流が続いていました。

お寺の仮設住宅では、玄関先に鉢植えを並べている方がいらっしゃいましたが、どういういきさつがあったのですか。

花を植えるのが好きな人たちがいたのです。緑がすごく多かったという印象があります。

会社が8月にEで再開したときには、Sさんは仮設からEに通っていたのですか。

そうですね。でも、まだ売るお酒がなかったので、現場で酒造りから始まりました。震災前は従業員が70人ぐらいいたのですが、今は30人ほどです。津波で7人ぐらいが亡くなって、取りあえず若手から順次採用という感じで、最初は20人ぐらいで始めたでしょうか。ですから、当時は会社が若返ったと思います。

仮設住宅での暮らし

お子さんたちの学校はどうされていたのですか。

娘と息子はI中からJ中に転校することになりました。息子はちょうど中学に上がるときで、1カ月ほどだけI中に通っていたことになります。

子どもさんたちに戸惑いやストレスのようなものはありましたか。

D町の人たちがみんないい人たちで、そういうことは一切ありませんでした。息子は当初、同級生とぶつかった時期があったのですが、後々はその子が一番仲の良い友達になりましたね。Jの子たちはみんな穏やかな子たちなので、心配はありませんでした。

D町に引っ越してから買い物は普段どこまで行かれていたのですか。

D町で買える物は限られてしまうので、K市などに行っていましたね。当時、Jにスーパーはありましたが、ドラッグストアやコインランドリーがないので、足を延ばしていました。A市の広報も配られていたので、情報の面でも特に困ることはありませんでした。

仮設の中で町内会的な組織ができたのはいつ頃でしたか。

すぐにできたのですが、役所の人がC園でも一緒で、その人がリーダーだったのです。私がその人の片腕のような感じになりました。町内会費的なものを集めることはなく、みんな同じ境遇だったので、みんなで支え合っていました。

仮設周辺の住民の方々が野菜や米を持ってきてくれたりして、とても優しいのです。地元のお祭りにも参加させてもらったりしていました。

自宅再建を決意

D町の木造仮設からL(A市)の災害公営住宅に入居したのはいつ頃になりますか。

平成30年(2018年)の8月ですね。完成してすぐに入りました。自宅を再建するか、公営住宅に入るかというアンケートが市から定期的にあって、私たちは自宅再建を考えていなかったので、取りあえず公営住宅に入ろうという感じでした。

当初はここが終の棲家なのだなと思っていたのですが、2人とも仕事をしていたので、当初は2万円程度だった家賃がどんどん高くなり、8万7000円ぐらいになったのです。結局、子どもたちの進学と、高い家賃をずっと払っても住まいが自分たちの財産になるわけではないことを考え、家を建てた方がいいと考え直しました。

子どもたちは年子で2人とも4年制の大学に進み、仕送りもしなければいけないので、お金が結構シビアなときだったのです。でも、姉がMという所に2世帯分の更地があるという情報をつかみ、だったら姉弟でそこに家を建てようということになりました。姉は元々Mに家があったのですが、津波で流されていました。姉が2筆分の土地を買い、私が借地して土地代を払うという形です。家は令和2年(2020年)2月に完成しました。

家を建てるときに、お金の工面はどうしようと考えておられたのですか。

国の被災者生活再建支援金などの補助制度の情報が飛び交っていて、圧倒的に建てた方がいいという話も入っていましたし、ローンの利子補給のことも分かっていたので、それならそんなに無理しないで建てられると考えました。

津波が来る前のIの町であれば、月2万程度の安いアパートはあったのですが、それが全部流されて新築のアパートしかなくなり、家賃が7万~8万ぐらいのところしかなくなってしまったというのもあります。

ただ、敷地を手に入れて、家を建てるために具体的に動き出すまでは結構早かったです。工務店はIに住んでいたときに同じ地区で仲が良かった人に頼みましたし、取りあえず家族4人の部屋がそれぞれあって、リビングがあれば何とかなるだろうと考えました。

設計は、私をいろいろ支援してくれた方が今風の感じで無料でしてくれるということでお願いして、あとはそれを知り合いの工務店に「この予算でできませんか」と依頼したら、「あんたに頼まれたらやらないわけにはいかない」と言われて実現しました。

自宅の間取りについて

間取りについては、奥さんの意向もかなり反映されているのですか。

自然だったと思います。私たちにこだわりは特になく、建築事務所の方にお任せして、一度図面を持ってきてもらったら、「ちょっと、ここは」という感じで直して、最終的に今の形になりました。

ただ、前の家は父親が自分で設計して建ててくれたのですが、それと少し似ているといえば似ているのです。階段に手すりがあったり、2階で洗濯物を干すことができたり。あと、吹き抜けにしているので、夏の暑いときでも2階の窓を全開にすると風が一気に抜けて暑くありません。坂本龍一さんからもらったペレットストーブも置いています。

地震があったとき、大きな被害にならないように意識されましたか。

そうですね。取りあえず高い所に建てようとは考えました。前に住んでいた場所は海抜7メートルだったので、15メートルの津波が来たら駄目だったのですが、この場所は海抜28メートルあるらしいので大丈夫だろうと思います。場所的にも県立病院もあるし、C園もあるので、年を取っても歩いて病院に行けます。

ローンについてはご夫婦で話し合って決められたのですか。

そうですね。労金から私の名義で借りるつもりだったのですが、妻の方が手取りが良かったものですから、労金から妻名義で75歳まで借りることにしました。定年が65歳なので、繰り上げ返済も考えています。

その時々にベストな選択を

ご自身の経験を振り返って、大規模災害で被災された方に対して助言やメッセージを頂けますか。

そのときそのときでベストの選択をしていくしかないと思うのです。ああいうことが起きてしまったことは受け入れるしかなかったし、住まいの移動も全て流動的で想定していなかったのです。その中で比較的後悔するようなこともなかったように思っています。

今回、能登であのようなことが起きて、国にはもう少し被災地の人たちに寄り添った判断をしていただければと思うし、その中で被災者本人がベストな判断をその都度選んでいくしかないと思います。

Sさんの持ち前の明るさやキャラクターがいろいろな場面で生きたのではないですか。

必死にモチベーションを上げようとしたわけでもないし、運が良かったのでしょうね。でも、人とのつながりがあった方が楽しいですし、感謝の気持ちを表すのは普通だと思うのです。今もそうした人たちとつながりがあって、私はありがたく思っています。

聞き手

福留 邦洋(岩手大学地域防災研究センター)

関連キーワード

関連記事

被災者の証言TOPに戻る