被災者の証言

被災者の証言

R・H 氏

R・H 氏

A市在住、当時はA大准教授(英会話)。
自宅マンションは床上浸水したが、自身の部屋は家財が倒れた程度で被害なし。

知人が営むAホテルに2カ月ほど滞在後、自宅マンションに戻った。大学を退職後、A市の復興まちづくり情報交流館長を務め、震災の語り部も務めた。現在は震災遺構門脇小学校の館長。

発災時の状況

地震が発生した当時、どちらにいらっしゃったのですか。

大学の自分の研究室にいました。自宅は無事だったのですが、大学の川向かいにあり、橋を渡れなくなったので、2泊ほど大学で過ごした後、友人のB社長が営むAホテルに向かいました。ホテルでは避難所が開設されており、B社長から「ライフラインが復旧するまで、おまえはここにいろ」と言われました。ありがたかったです。

自宅には1週間後ぐらいに入ることができたのですが、キャビネットの引き出しが開いて倒れ、物が散乱していたものの、被害はそれほどありませんでした。この部屋には地震保険が付いていたので、発災から数日後、保険会社から「家の中を見たい」という連絡が来ました。私は「大した被害はないですから結構です」と言ったのですが、向こうが「どうしても見たい」と言って見に来てくれて、一部破損の状態と判定したので、かなり早い段階でお金が下りて感謝しています。

Rさんが元の生活に戻れたのはいつ頃ですか。

全てのライフラインが元に戻った時点ですから、5月末ごろだったでしょうか。Bさんのホテルは3月末まで避難所だったのですが、すぐにホテルの機能を復旧させるのではなく、支援に来ている大阪市役所の皆さんが宿泊場所として使っていたので、私は個人的な友達ということで、「ライフラインが戻るまで引き続きここにいろ」と言われ、電気、水道に続いてガスが復旧した時点で自宅に戻りました。

では、ホテルでは2カ月少し生活されたのですね。

快適に見えるかもしれませんが、コンクリート造りなので、暖房がなかった当初は寒かったです。避難所のほとんどが2階の宴会場でみんな雑魚寝状態だったのですが、窓のない階だったのでろうそくをたくさん立てていました。宴会場を使っていたのは、余震があったときの安全を考えてのことだったと思います。ただ、私は特別に上階の宿泊室に滞在させてもらっていました。でも、ホテル暮らしといっても食事は避難所のおにぎりという感じでしたし、ただ寝泊まりする場所という感じでした。

電気がいつ復旧したか覚えていませんが、震災後の一番大きな余震があった4月7日に停電になったのを覚えていますから、その時点で復旧していたと思います。お風呂はCに住む友達の家の復旧が結構早かったのでたまに借りたり、洗濯をさせてもらったりしました。

B社長は避難所の運営で忙しくしていたので、Bさんから「私の自宅の片付けを手伝ってくれ」と言われて手伝っていましたし、他の友達の店や家の片付けも手伝いました。テレビなどの取材もいろいろ受けました。私は目立ってしまうので、向こうが勝手に私がリーダー的にボランティア活動をしていると思い込むのですが、友達のお手伝いだけで、みんなの先頭に立つようなことはしていませんでした。

大変だったこと

Rさんにとって一番大変だったことは何ですか。

自分は生活関係や仕事環境に関してみんなと比べて苦労してない方だと思いますが、一番つらかったのは友達が亡くなったことです。

自分の持ち物は大丈夫でしたし、車も無事だったので大学には車で通勤していました。大学は当初動いていなくて、避難所になった後はボランティアの受け入れ先となり、グラウンドがテント村になった時期もありました。大学として再開したのは、私が家に戻った時期と大して変わらない5月初めごろだったと思います。でも、いきなり仕事がなくなって収入が消えてしまうことはなかったので、意外とやっていけました。

転居も考えられたと思うのですが、お住まいのマンションに住み続けているのはなぜですか。

大家さんに見てもらったら、特に危ない状態ではないとのことでしたし、引っ越しの必要性をあまり感じませんでした。性格的にも面倒臭がり屋なので、引っ越しはなるべくしたくなかったのです。

情報交流館館長に就任

Rさんはいつから復興まちづくり情報交流館の館長を務められたのですか。

大学を辞めたのは平成26年(2014年)3月だったのですが、何をしたいのか自分でもよく分からなくて、しばらくは貯金暮らしの状態でした。どうしようかと思っていたら、同じ年の9月ごろに市役所から、「震災の資料館のようなものを作ろうとしているのだが、そこで仕事をしないか」と声がかかり、私は引き受けました。でも、正直に言うと「ぜひやらせてください」という使命感ではなく、純粋に何か仕事をしないといけないという思いで、何の仕事なのかあまりよく分からないままやってみようという感じでした。交流館は翌年3月にオープンしました。

インフルエンサーとして海外の方への情報発信や交流を一生懸命されていたそうですね。

市役所は計画的だったと思います。最初はスタッフとして働いていましたが、2~3カ月後に館長になってほしいと言われました。私には務まらないと思ったのですが、Bさんやいろいろな人に説得されました。市役所としては、外国人がそうした役職を務めるのは珍しいからマスコミの注目を集められるという思惑があったのではないかと思います。それが的中してオープン直後から取材がたくさんあり、そのおかげでA市のことをアピールできたと思います。

震災関係の他のいろいろな施設では英語のパンフレットを作ることが多いと思いますが、私の場合は生の英語で解説できるし、自分が実際に被災した経験も話せるという強みがあります。ですから、旅行会社が次々と団体を連れて来て、リピーターになったりすることもありました。周りの施設とも仲良くしていましたから、あそこに行けば外国人が英語で解説してくれるということで、そうしたネットワークによる集客もありました。どんな仕事かあまり分からずに引き受けたのですが、実際にやってみると自分に合っていると思いましたし、自分の強みを生かせました。

友人との関わり

Rさんのお話にはお友達のことがたくさん出てくるのですが、どういった関係のお友達ですか。

A市に来た当初は内気で友達をあまり作れなかったのですが、青年会議所に入ると一気に友達の輪ができました。青年会議所の特徴は、いろいろな業界の人が集まっているので、幅広い付き合いができることです。青年会議所でいろいろな事業を行う中で仲良くなり、お互いに支え合える関係が生まれました。

発災から1週間後ぐらいにD大使館から連絡がありました。それは福島第一原発事故を受けてDへの避難を勧めるためでした。私はとても悩んで、いろいろな友達に相談したのですが、みんな「ここは大変だからDに行った方がいい。あなたが安全だと分かれば、われわれも安心する」と言うのです。一方で、友達が困っている状態なのに、私だけが離れるのはいかがなものかという気持ちもありました。

そんな状態で大使館員が来て、E市に連れていきました。一晩中どうしようかと悩んだのですが、青年会議所の友達が自分のことを輪に入れてくれて、大切な友達としてくれていたので、放っておけないということでDには帰らず、A市に残ることにしました。

そんなことがあったのでマスコミが結構食いついてきました。するとBさんは、「これはおまえのチャンスだ。マスコミがあなたの話を聞きに来ているから、それを利用してA市がどんなに大変かをアピールしてくれ」と言われました。

震災が起こった後、一番支えられたのは何ですか。

一番支えられたのは、やはりBさんの存在です。私をいろいろと守ってくれて、常にアドバイスしてくれたので、とても心強かったです。彼と出会ったのは、私がA市に来た平成5年(1993年)、青年会議所が仕掛けた市民劇に出演したのがきっかけです。そこで私の存在が青年会議所に知られ、翌年入会しました。Bさんは理事長経験者で、私が入会した時点でかなり偉い立場でした。

次の被災者へのメッセージ

被災する前、被災した後の心構えや大事なこととして、アドバイスはありますか。

とにかく人と人とのつながりの大切さをものすごく感じました。メッセージとしては、常に防災意識を持っていた方がいいと思います。今までは被災地にいなくてもほとんどの人が震災をテレビなどで見聞きして、被災地は大変だということをある程度認識していましたが、今は震災後に生まれた子どもたちが小学生になっています。悲しいことに、A市生まれの子どもでも意外と人ごとに考えている子がいるのです。門脇小学校での解説のときには「人ごとではない」ということをいつも話しています。

われわれが伝承活動をしているのは、なるべく震災の犠牲者が出ない社会をつくりたいからです。避難することの大切さをきちんと理解してほしいというのが私の最大の願いです。

聞き手

佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)

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