被災者の証言

被災者の証言

Y・C 氏

Y・C 氏

当時40代、女性団体代表、A市在住。
自宅は地震・津波による目立った被害はなく、庭に火災の飛び火があった程度だった。

自宅が海で働く親戚たちの避難場所になっていたため、ある程度の備蓄があり、避難してきた近所の人たちの世話をする生活が3カ月以上続いた。20代の頃から地域づくりに関わり、震災後も集団移転先のコミュニティで、若者を巻き込んだ地域づくりに取り組む。

被災当初の状況

当時の被害状況を教えていただけますか。

兄1人と猫1匹と一緒に暮らしていて、みんな無事でした。自宅は当時で築100年だったのですが、崩れませんでした。梁が若干持ち上がったぐらいです。ただ、畑を踏み荒らされたので野菜が全部駄目になったのと、火の粉が庭に飛んできて植木が燃えました。

避難所には行ったのですか。

兄はその日休みで自宅にいたのですが、そのまま自宅に残りました。私は会社から中学校に避難して、そこの体育館に6日間いました。

会社からすぐ自宅に行かなかった理由は何ですか。

当日は津波が川を遡上していて、道路はすでに渋滞もしていたので帰れる状況ではなかったのです。近くの中学校に避難した後も、中学校の周りが瓦礫だらけで、しばらく移動できませんでした。6日目に自宅に帰ったときも、途中までは瓦礫が撤去されていたのですが、そこから先は障害物競走のように、誰かが壊した家の壁を通り抜けたりしながら、普通に歩けば20分で帰れるところを6時間かけて帰りました。

それでも自宅に向かった理由は何でしょうか。

うちと隣の家に合計18人が避難していることと、当時93歳のおばが生きていて家(自宅)にいることが分かり、帰ってご飯を作らなければと思ったからです。震災翌日の朝6時には分かっていました。

携帯か何かで連絡があったのですか。

いえいえ、口伝えです。携帯は当日の16時ごろには使えなくなっていました。うちに避難したものの、お薬がない人たちが結局山を越えて中学校に避難してきて、「お宅の家はあるよ。お兄さんとおばさんは生きているよ。そこに18人避難しているよ」と教えてくれました。

地域の人たちを支える生活

では、自宅に戻った後のお話も聞かせていただけますか。

帰って、まずは古着をためていた衣装箱を開けました。避難していた人たちに「寒かったらどうぞ着てください」と言ったら、あっという間に空っぽになりました。あと、高齢の人たちが水の湧く場所を把握していて、水が汲んできてあったので、歯磨きと洗髪をしました。そしてご飯作りを始めました。

震災の1週間後に地域の子どもたちが家に来て、「なぜそんなに髪がきれいなのか。自分は1回も洗えていない」と言うので、「炭でお湯を沸かすから13時においで」と言って、子どもたちを並べて頭を洗ってあげました。

昔の家なので、本家と分家があって、うちは分家です。父が分家になるときに、祖母が父に対して、「私たち一族は海で仕事をするので、ここを避難場所として渡す」と言ったそうで、私は祖母からこの家が避難場所だということと、小豆ともち米を置いておくようにということを、小さいときから植え付けられていました。子どもたちの頭を洗った次の日がお彼岸の入りだったので、私は5時間かけて買い物に行き、ミカンだけ買って帰り、20日がお彼岸のお中日だったので、ぼた餅を作って地域の方々に配りました。子どもたちには、味ぶかしを作っておむすびにしてあげました。

その頃になると、Bから車で子どもたちの洋服が届くようになったので、洋服を青空市のようにブルーシートに広げて配っていました。

電気やガスはどうしたのですか。

電気はもちろんないです。ガスはプロパンでしたが、ガスを使ってしまうと次にいつ補充できるか分からないので炭を使いました。祖母に「うちが避難場所だよ」と言われて育ったので、本家の家族と兄と私、合わせて7人が38日間生活できる食料や炭は持っていたのです。

地域の人たちのお世話をする生活はどれぐらい続いたのですか。

6月30日までです。携帯が3月21日からつながって、いろいろなところから「支援できますよ」という連絡が入るのであっという間に充電が切れて、市役所まで90分歩いて行って充電して戻ってを繰り返しました。

3月28日に、近所のお宅のガレージが地域避難所になったので、ようやくA市から食料が配布されるようになりました。

地域避難所というのは誰かが申請したのですか。

3月21日にC市の議員さんと電話がつながったので状況を説明したら、D市の議員さんに話をしてくれて、D市の議員さんがA市の議員さんに「ここの人が困っているらしいから助けた方がいいのではないか」と言って地域避難所になりました。それまでは中学校まで男性陣を連れて毎日通って、風呂敷に88人分の食べ物を入れて背負って帰ってきていました。

なぜそのような生活が6月まで続いたのですか。

120戸あった家が10戸しか残らず、みんな帰る家がなかったからです。電気が開通したのが5月11日、水道が23日で、仮設ができたのが6月5日です。それも子どもがいるところが優先だったので、地域の人で最後に入居できたのは9月15日です。

お彼岸あたりに地域の人たちで集まり、「このままだとみんな死んでしまうから何かしなければいけないよね」という話をしたら、地域の議員に「おまえは女だから黙ってろ」と言われました。でも結局何もできないのですよ。医療チームも、入浴支援も、議員の力を借りず、私たちが自分で市役所の職員に相談して引っ張ってきました。全部自分で引っ張ってきたので、地域のことは自分でやろうという思いがありました。

地域づくりへの関与

高台移転や地域づくりにも関与したのですか。

高台移転はNGOが仕切っていたので、深くは関与していません。男尊女卑の根強い地域なので、NGOが補助金を取ってコンサルを入れて高台移転のデザインをしてという、要するにお金絡みのことは、地域の議員に「おまえたちは参加しなくていい」と言われました。

土地のデザインが決まり、下に私たちの既存のコミュニティ、上に新しいコミュニティが完成すると、絵に描いたように分断が始まりました。「せっかく生きられたのだから、今までのように気を使って生きる必要はない」という空気感が出てきて、「干渉しない」といういい言葉を使って、人と関わらなくなったのです。そこを擦り合わせて、お互いが生きやすい地域をつくらないといけない。そのための道具として、私は防災と福祉を組み合わせました。精神障害の子たちを奇異な目で見る空気があったので、この子たちも地域住民として参加できる空気を醸成しないといけないと思い、「みんなの命を守るためだから、協力してもらえますか」と声をかえていきました。私は震災前から医療や福祉に若干強く、震災のときも命を救う活動ができて、そこは地域の人たちも認めてくれていたので、比較的うまくいったと思います。

高齢化していくので、若い人たちが意見を言える環境も作らなければいけませんでした。地域調査をしたら日中高齢化率が97%だったので、今のうちにきちんと地域づくりをしておかないといけないというのがスタートでした。

医療や福祉に強いというところを詳しく教えていただけますか。

私たちの地域には、昭和の後半から不登校や引きこもりの子どもがいました。この子たちが生きにくいと思って自殺してしまうことを私はとても悲しく思い、女性団体を立ち上げました。あとは、自治会が男性ばかりだったので、女性の目線も入れないとうまくいかないと思い、自治会と自分の団体をごちゃ混ぜにした状況をあえて作り、両方の活動をしてきました。具体的には、防災研修という名の旅行や夏まつりなどを企画して、若い人たちを巻き込むのが私の主たる仕事です。若い人たちがやりたいことを高齢の男性たちは妨げたがるので、「若い人たちの気持ちをつぶすな」と言いに行く係です。

私は20代のときからA市の男女共同参画推進条例の策定に関わり、日赤の活動や女性活動もしていたので、そういうつながりで震災のときも支援の連絡をたくさん頂きました。

6月30日まで地域の人たちのお世話をしていたのは、個人としての活動ですか。それとも、団体としての活動ですか。

両方ですね。そこら辺は線引きなく、好き勝手していたというのが正しいと思います。

地域づくりをする中で大事にしていることを教えてください。

ムリとムダをしないことです。無理をすると続かないので、みんながそれぞれできることをできる範囲でやればいいと考えています。そして、何か行事をするときは1日に最低三つの行事を組み合わせて、人の労力を1回分で済ませることで、無駄を減らすことも大事にしています。

あとは、心を大切にすることと、認め合うことです。地域に統合失調症の子がいるのですが、「僕は気分障害があるからあまり役に立たないけれども、若いから、力でお手伝いできるから言ってね」と言ってくれます。ですから、受援者と支援者という分け方をしないで、できることをやってもらう。それは、「この人がここにいるよ」というメッセージと、「勝手に役割を決めては駄目だよ」というメッセージです。変な目で見る人が一人でも減るように、やはり認め合うことがすごく大事だと思っています。

自身の支えになっているもの

先頭に立っていろいろな活動をされていますが、ご自身の心の支えになっているものは何なのでしょうか。

「生きる」という思いだけですね。震災と関係なく、20代のときからそれが私の活動の中心です。ただ呼吸をして、心臓が動いて、ご飯を食べてというのは生命的に生きることです。心を持ってきちんと自分の未来に向き合うことが「生きる」ことだと思っていて、そういう意味で「誰一人取り残さない」という強い思いがあります。「生きる」ことは生き続けること、生き続けることはQOLを維持して心を大切にすることだと思います。

聞き手

佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)

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