A・J 氏
当時40歳、B町在住、海苔養殖業。
住まいの被害はライフラインの停止のみ。一方で家業は大きな被害を受けた。
当時40歳、B町在住、海苔養殖業。
住まいの被害はライフラインの停止のみ。一方で家業は大きな被害を受けた。
津波で仕事道具を失い、1年間はアルバイトで生活資金を確保。その後、国の「がんばる漁業復興支援事業」で3年間の助成を受けて事業を再開するも、不作の年があり借金が積み重なる。子どもの学費については民間の奨学金や県の制度を利用。
主人、私、高1の息子、小6の娘、お義母さんの5人でした。
すごく揺れました。うちは海苔養殖をしているのですが、その日はちょうど生産をしていて、バーナーを付けて機械も回っていたので、それを消さなくてはいけないのに歩けないぐらいずっと揺れて。そうしているうちに電気が落ちて停電しました。
そのとき主人は海に行っていました。そのときのことを聞いたら、仕事中は船のエンジンをかけているのですごくうるさいのですが、船の底を突き上げるような、ドンドンドンと叩かれるような感じがあって、最初は機械の故障かなと思って機械を止めて、しーんとしたときに、ズサッと何かが崩れる音がして、そうしたら陸の方で何かが崩れるのが見えて、これは地震で津波が来ると思ったみたいです。大急ぎで陸に上がったら、既に津波が到達しているというラジオ放送があって、周りの人から「とにかく上に上がれ」と言われて、B町には七つの集落があるのですが、うちの集落はみんな避難して無事でした。
そのころ私は、重油のタンクが家の前で倒れてドボドボこぼれていたのをコルクで塞いで、浜に下りて夫が帰ってきているか確認して、一緒に上に上がり、津波が来るのを泣きながら見ていました。
前年にチリ津波が来たときは、湾の中に入ってきた津波をテレビで見たのですが、実際に見た津波はすごかったです。波が何度も行ったり来たりして、ゴーッと音を立てて白波が向こうからやって来たと思うと、家や木や車や自動販売機を全部ちぎって引き潮で持っていくのです。
うちは海抜25メートルで、なだらかな坂の上だったので助かりました。自宅が工場になっていて機械があるのですが、ずれたり物が落ちたりはしたけれども、壊れたりはしなかったですね。
海にあったロープやいかりなどの漁具と船、そして養殖棚をなくしました。船は5艘あったのですが、1艘は海苔を積む一番大きな船で、中古で半年前に買ったばかりでした。それがCの方にあるという情報があって車で探しに行ったけれども見つからなくて、多分割れて沈没したのですね。ただ、船外機という小さいボートみたいなものがあるのですが、それは仲間がD市の方で見つけてくれて、車に載せて撤収してきました。そこからまた事業投資をして、1年後に事業を再開しました。
これは夫がよく言うし、私も思いますけれども、私たちみたいに家に機械が残ったりするより、道具が全部なくなった方が、後々仕事をするには良かったというのはあります。なくさなかった者のエゴですね。
3月は、とにかくあたふたしていましたよね。主人の一番上のお姉さんが家を失ったので、お姉さん家族がうちに来て、10人で1カ月ぐらい生活しました。少し生活が落ち着いてから、子どもたちは学校に行き始め、夫は半年ほどアルバイトに行きました。うちは田んぼもあるので農協の組合員でもあるのですが、お手伝いをして日当を頂く生活支援みたいなものがあって、私はそれで1カ月ぐらいごみ拾いなどをして収入を得ていました。
この先どうなるのか、どのように復帰すればいいのかも分からなかったので、いろいろリサーチして、子どもの学費の支援を受けられないかと思って7月ごろに休業届を出しました。周りの海苔屋さんは60代が主力だったので、これから何千万円も借金するのは怖いということで、漁具や漁場の保険金をもらって事業を辞めた人もいます。
県漁協からは「再開するから待っていなさい」と言われたので、私たちはいつ再開できるのだろうと思いながらアルバイトをして日々過ごしていました。そして、夏ごろに漁協から、国の「がんばる漁業復興支援事業」の助成を受けて協業施設で再開するという話が来ました。みんな船も漁具もないから、このままでは海苔漁業者が皆「いなくなる」という現実もあり、ならば、国からの補助を利用して協業化することで、個人負担が軽減できると見越しての協業での事業再開ということですね。私の家の場合は、道具が全て無くなっていないこと、夫婦ともに40代であることが辞めないで続ける理由になります。事務的な手続きはよく分からないので漁協に言われるがままでしたが、職員が全部やってくれて、水道代やガソリン代、人件費など、細かい事業費も3年間全部出してもらえました。
そうです。だから、水揚げしたものは自分のものではなかったですよ。漁協のもので、漁協が売ったお金で国に返すのです。
そうです。そして、その年というのが不作の年だったのです。最近だと令和2年・3年(2020年・2021年)もひどかったです。栄養塩不足で海苔の色が出なくて売れなくて、でもコストは払わないといけないからまた借金をして、本当にいつ返せるのかという状態です。ちなみに、震災があった年は魚信基(漁業信用基金協会)から1200万円借りました。
うちは海苔を乾燥させる機械や貯蔵タンクなどが残ったのですね。それ故に、全部を失った人とは支援の内容が違うのです。失って新調した機械で作るものと、古い機械で作るものも、やはり違いますよね。うちの機械はしょっちゅう修理が必要で、もう、いつ壊れてもおかしくありません。
だから、個人の意見としては、うなだれることもありますが、B町全体としては、明るい未来への第一歩であったことは間違いないと思っています。
上の子は高校を卒業して専門学校に行きました。下の子も高校を卒業後はE県の大学に行きました。
下の子の大学はありませんでした。上の子に関しては、実は高校のときに私が「情報が何かないか、職員室の周りに行って見てきなさい」と言ったら、「こういうのがあるよ」と言って、ローソンの「夢を応援基金」を教えてくれました。月額3万円、年間36万円を学生の間ずっと給付するというものです。福島原発の何キロ圏内とか、家が全壊・半壊とか、両親が亡くなったとか、そういう条件があったので、私がない頭を絞って考え出したのが休業届けです。「こういうわけで仕事ができなくなって収入がなくて」というのを切々と書いて、息子は「二十歳の自分へ」という手紙を書いて、高校の残り2年間と専門学校の2年間、無事給付を受けることができました。それから、F県の学費支援制度も利用しました。これは本人が就職した年の年収が360万円以下なら返済不要というものです。ですから、返さなくていいお金で学校に行けました。
ちなみに、私は震災の直前から外で募金箱を見つけると募金するようにしていたので、「夢を応援基金」に通ったとき、「金は天下の回りもの」とはこのことかと思いました。もらいっ放しでは駄目だよなと思って、今は毎月2000円を日本赤十字に寄付しています。
仕事が面白いからです。人に「面白い」と心から言えるようになったのはつい最近ですよ。それまでは、いつか辞めたいとずっと思っていました。体は疲れるし、一番はお金の不安ですよね。でも、いくら心配しても仕方がないというのが分かって、だったら目の前のことを楽しもうと思えるようになりました。頑張っていれば見てくれている人はいて、困ったとき助けてくれるのです。A家はいつも誰かにそっと手を差し伸べられて生きている感じはすごくしますよ。
「温かいものとおいしいものを食べて笑いましょう」ですかね。人間、おなかがすくとイライラするから、おいしいと思えるものを食べて笑った方がいいです。今はスマホがあるから手元でユーチューブも見られるし、道具があるのだから、絶対に笑えますよ。
佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)