被災者の証言

被災者の証言

A・K 氏

A・K 氏

当時50代、日本料理店の女将、B市在住。
自宅兼店舗は流失しなかったが、1階店舗は水に漬かり、2階住居も損傷して全壊の判定に。

店舗2階にしばらく居を構えながら、地域住民が集まって情報交換をするための朝会を主催。そこでの人的つながりを基に商店街の復興に努める傍ら、平成24年(2012年)には自らの店舗も再建した。

地震発生直後の状況

地震が発生したときの状況を教えてください。

当時は休憩時間で、両親は店舗1階の住居部分で休んでいて、私は路地を挟んだ向かい側の自室で休んでいました。事務員さんが1人で仕事をしていて、ちょうど銀行に行って留守にしていたときでした。地震に対する備えはしていましたが、激しい揺れで何もできず、外に避難する余裕もないし、父がちょうどカテーテル手術の直後だったこともあって、そのままお店の2階で家族3人と近所の人、従業員の計5人で過ごすことにしました。

2階は客室ですから、食べるものがありません。しかし、カセットコンロと使いかけのガスボンベはあったので、翌日は開いているコンビニを見つけて、カップ麺などを買って食べました。お手洗いのこともあるし、水分を控えていたのですが、あまり控え過ぎると、年を取った人は3日目ぐらいになるとおかしくなるのです。それで、水分はちゃんと取ることにした覚えがあります。そうして1週間ぐらいを過ごしました。

3日目にはC山の方に上がって従業員の安否確認をしたのですが、そのときにB中学校向かい側の浄水場で水が既に配布されていたのです。それを見て、やはり情報がないと駄目だと思い、近所の方と相談して朝会を始めるようになりました。われわれの復旧復興はこの朝会の存在なくして語れないと思います。

朝会について

朝会のことを詳しく教えていただけますか。

中心市街地は在宅で避難していた方が多かったので、いろいろな情報をみんなで交換したらいいのではないかという話になり、時間を決めて朝に集まって話をすることにしました。初めはご近所の方10人足らずで交差点の真ん中で始まりました。

でも、当初はなかなか難しくて、こうした場に出てくるのは町内会長や商店会長など「長」の付く人ばかりですし、これだけの被害があるとみんなギスギスしていて、ちょっとしたことでムードが悪くなりました。でも、年長者の助けを借りて、何となくまとめることができるようになっていきました。

そのうち、多いときで70~80軒ぐらいが集まるようになり、在宅避難でも名簿を届けると避難所扱いしてもらえるということで、名簿を作成して市役所に届けに行きました。その結果、物資が届くようになり、給水車も来るようになりました。

やがて、隣り合う家10軒を1グループにして、とにかくグループごとに活動することに決め、物資もグループごとに受け入れ・配布をすることにしました。それが結果的には良かったと思います。来る者は拒まないのですが、来る方には必ず役割も負ってもらうことにしたのです。

勉強会を立ち上げ

Aさん自身はお店とお住まいの修繕をどう進めていったのですか。

朝会の活動の中で、市のいろいろな情報を確かめに行ったり、それに対して話を聞きに行ったりしていたわけですが、やってみないと分からないことが出てくるので、支援策に自分で申請してみて、どうなっていくのかを確かめたのです。

その一つがグループ補助金でした。当時は民主党政権で、財務副大臣を務めていたD県選出の参議院議員の方が、被災者の話を聞きたいということで市役所を訪れ、いろいろな話を伺ったときに、「国のお金を出す準備はあるのだけれども、税金だから一人一人に対して分けるわけにはいかない。だから、複数でグループを組んで再建の道を考えたところには手厚くする」という話があったのです。

私は地元に戻って、朝会の人たちがいる大きな「街なか」というくくりの再建と、わが家のある細い路地の部分の再建を進めるための勉強会をそれぞれ立ち上げました。どちらも大学の先生や、手を貸したいという頭脳集団の方々に頼って進めていきました。

「街なか」の方と一緒にグループ補助金を活用したということですか。

結果的にグループ補助金は各事業所が再建するための補助金で、グループで何かを作るものに対して出る補助金ではないのです。私たちのときは、商工会議所の働きかけで600軒ぐらいの商業グループを形成し、自店の再建をしました。

申請のときに、書類を準備する期間が2週間ぐらいしかなく、しかも必要な図面や資料が多過ぎてかなり苦労しました。グループ補助金は復旧のための補助金であり、復興のために使ってはいけないというのがナンセンスだと思いました。新しい機種のパソコンを買うのは駄目だと言われるのです。同じ補助金をもらうのであれば、もっとより良い使い方ができる自由度があればいいと思いました。私たちも店舗を立て直すに当たって部屋数を以前より増やしてはいけないと言われました。

自宅の修繕

お住まいの修繕はどうされたのですか。

あいにく保険に入っていなかったので自費で再建しました。ただ、新築する際に200万円の補助金が出たのですが、その200万円は「COMICHI石巻」という施設の建築のときに使いました。私たちの住居は被災していない2階の座敷に移し、それまでの扉を1枚付ける程度で、そんなに多くの費用をかけずに直しました。

修繕が終わったのは平成24年(2012年)7月でした。コンサルの方から、経済的基盤がきちんとしていないと復興に進めないとアドバイスされ、一気に修繕を進めました。今思えば早くやってよかったですね。自分が希望の光になるというのはおこがましいですが、頑張れば先に進めると思ってもらえたらという思いがありました。

生活費はどうされていたのですか。

若干の蓄えはありました。事業主は失業保険をもらえないので、店を閉めていると収入はゼロなのです。そこで、近所の同世代の方と一緒に「石巻ZENKAI商店街」というグループを作り、何か販売しようということになり、オリジナルのTシャツや日本手ぬぐいを作って販売を始めたのです。その利益をみんなで分けました。

どんなTシャツなのですか。

漫画家の矢口高雄先生によるイラストと「石巻みんなの力ひとつに」というメッセージがプリントされています。石巻には石ノ森萬画館という施設があって、私はその建設時に運動したメンバーの一人だったので、漫画家の先生方とはずっとお付き合いがありました。先生方も自分たちのシンボル的な場所と認識してくださっているので、震災のときはものすごく皆さん心配してくださったのです。それで、「このTシャツを買って頂くと私たちが助かります」と明言して販売しました。当初は売上を自分たちの利益にしていたのですが、今は鳥取のボランティアグループが販売していて、利益を熊本などの震災支援に寄付していただくスタイルになりました。

同業の組合員の助け

復興していく上で役立ったことはありますか。

同業の組合員の方々には本当に助けられました。全国の料理屋に当時のE市のメンバーが声をかけてくださり、各料理屋で使わなくなった器を届けていただきました。こうした同業からの支援の例は珍しいのではないかと思います。

ウナギの同業者には、店を閉めたからということで店舗の一式を持ってきてくれた方がいましたし、能登の塗師さんからも、平成19年(2007年)の能登地震で自分たちが大変な思いをしたからということで重箱を持ってきていただいたので、すごくありがたかったです。

そこで、同業のグループに何かお返ししたいということで、「料理店の震災談義」という冊子を作り、差し上げたのです。こうした同業のネットワークも大事だと思っています。

複数の選択肢を持つこと

災害に備えてこれはやっておいた方がいいということや、起きた後に気を付けた方がいいことはありますか。

私が恐れているのは、何でもスマホやパソコンでやろうとしていることです。実際、私たちの地域はゴールデンウイークまで電気がつながらなかったわけで、電気が通らなければスマホは使えません。絶対にアナログの対応法も考えておいた方がいいと思います。

普段から何も考えていなかったら、とっさに何もできないと思うのです。日常の中で考えてみることが大切です。これが駄目だったら、これがあるよなというふうに時折考えてみるといいと思っています。

それから、被災したらみんなこの先どうなるのだろうと考えると思うのです。しかし、生きるための情報はたくさんあっても、生き残った後のことに関する情報は意外とないように思います。

選択肢を複数持っておくということですね。

自分の頭の中でシミュレーションするだけでも全然違うと思うのです。ですから、いろいろなことを身に付けておくといいと思いますね。古い生活の知恵も大切です。

聞き手

佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)

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