O・Y 氏
当時中1、両親・妹と同居。A町在住。
自宅は全壊。
当時中1、両親・妹と同居。A町在住。
自宅は全壊。
自宅は立て直したばかりだった。そこに先に住み始めていた祖父母を津波で亡くす。中学校が被災したため、2年生のときは別の中学へ通った。地元の高校を卒業後、県内の短大に進学。子どもの頃からイベントが好きで、A町観光交流協会に自らDMを送り、採用される。
最初の数日は、地区の方たちと一緒に、高台に何軒か残っていた民家に住まわせてもらいました。その後、避難所に入りました。地区の小学校だったのですが、そこにも津波が入っていたので、子どもたちが高台にいる間に大人たちが泥をかき出したりし、避難所にしてくれました。約4カ月いて、7月に町内の仮設住宅に引っ越しました。仮設にいたのは6年ぐらいで、平成29年(2017年)に自宅再建しました。
音楽室に5世帯いる状態で、下は小1から上は中3ぐらいの人たちと過ごしたのですが、きょうだいが増えた感覚でした。勉強を教えてもらったり、校庭で一緒に遊んだりして、楽しかった記憶があります。もし一家族だけで過ごしていたら、逆に気持ちが滅入っていたのではないかと思います。
いえ、抽選で、山奥の方の仮設が当たってしまった人もいると聞きました。私たちは運が良かったのだと思います。
うちは町から借りている土地だと聞いたので、多分、防災集団移転だと思います。家を建てることになったときに私は短大に入学したので、「(仮設になかったから)自分の部屋が欲しい」と主張した以外、家づくりにはあまり関わっていませんでした。
私が中学に入るまでは祖父母の家で一緒に暮らしていました。その家が結構古かったので、中学に上がるときに建て直すことになり、いったん別々に暮らしました。私たちは町方に住み、祖父母と叔父はBに住んで、新しくできた家に先に祖父母と叔父だけが住み始めて、流されてしまいました。
そうです。叔父が建てたのですが、1年もしないうちに流されて土台だけ残って、「借金を背負ってしまった」と言っていました。
震災前に通っていたA中学校は1階天井までまで津波が来て使えない状態だったので、2年生のときは同じ町内のB中学校にスクールバスで通っていました。普通の教室はB中学生が使っているので、私たちは理科室や家庭科室を借りていましたね。3年生になったときにプレハブの校舎ができたので、A中学校に戻りました。
私の学年でいうと3クラスで70人ぐらいです。中1、中2がB中学校に通い、中3の人たちはA高校に通っていました。
流されて、確か避難所にいるときに先生がジャージを持ってきてくれた気がします。服に関しては仮設に入る前に揃えることが出来ました。教科書は、B中学校に行き始めてからそろえた記憶があります。
自分の学年の人数は減りましたね。入学当初は90人ぐらいいたのですが、同級生が2人亡くなったのと、内陸に引っ越したりして転校した人たちがいて、20人ぐらい減ってしまいました。
学校行事は、劇団の人たちが来てボランティアで劇をしてくれたり、有名な野球選手が講演に来たりしたときはみんなで集まりましたが、そのときぐらいですかね。あまり接触はなかったです。
部活は、私はソフトボール部だったのですが、B中学校にソフトボール部がなかったので、A中学生だけで活動していました。両学校にあった野球部とか吹奏楽部とかは合同だったのかもしれません。
A高校に進学したのですが、そこは被災していないので、そのままの校舎に通うことができました。
高1のときに、私の1個上の先輩たちが復興研究会というのを発足して、それに私も所属し3年間、放課後活動をしていました。まちづくりのグループ、子どもたちと遊ぶグループ、町の定点観測のグループなどがあって、入りたいグループに入って活動するのです。
町外や県外の学生と交流会をするグループがあり、静岡や大阪など、次の津波が来るかもしれない地区の学校の人たちが来てくれて、A町の震災当時の状況を話したりして交流もたくさんできました。復興研究会に入って、自分の町のことについて考えたり、いろいろな人とつながったりすることができたので、入って良かったと思っています。これは震災がなかったらできなかった経験だと思います。
C県立大学のD短期大学部に入学しましたもう少し将来のことを考える時間が欲しかったのと、ボランティア活動をしているサークルがあると知ったので、入学後はそのサークルに入って町のことができればいいなと思って進学しました。
はい。献血活動とか花植えとか福祉系の活動が多かったのですが、顧問の先生が復興関連の活動に積極的な人で、内陸の大学に行ってワークショップをしたりしました。
また、高校のときにNPOカタリバが運営するコラボスクールに通っていて、地域の方と交流する機会があったのですが、D市でその交流会にいた人と再会して、そのつてでD市の方たちと一緒にお祭りのボランティアに参加したりしました。
はい。本当は地元の役場に就職しようと思って公務員を目指したのですが、落ちてしまって、ドラッグストアで2年間、接客業をしていました。その間も何か町に携われないかなと考えて、フェイスブックで「自分は町に携わりたいと思っていて、イベントが好きなのでそういうことを仕事にできたらと思っているのですが、いい職場はないですか」と投稿したら、「A町の観光協会というところがあるよ」と教えてくれた方がいました。「DMしてみます」と言って、募集もしていないところにDMを送ったら、「一度来てください」と返事があって、何回か通いました。資格も何もなかったのですけれども、とにかく「A町で働きたい。A町のファンを作りたい」と伝えて、平成31年(2019年)に採用してもらいました。
そうです。なので、入社してみたら私が思っていた観光協会とは違いました。外向けに「ぜひA町に来てください」という仕事だと思っていたら、コロナ禍で外から人を呼べなくて、地元の事業者の方が盛り上がるように、お金を回す施策を考える仕事がメインになっていました。地元の中で使える商品券など、町内の経済対策事業をずっとしていました。町内事業者の方と話す機会が増えてすごくやりがいを感じました。一昨年ぐらいにやっと外から人を呼べるようになって、当初イメージしていた仕事をやり始めている感じですね。
一緒に頑張っている友達の存在が大きいと思います。高校のときに、いろいろな人とつながってみんなを巻き込もうというので「繋巻(つなまき)プロジェクト」というグループを作りました。5人のメンバーで、一緒にボランティアに参加したり、語り部として大きいバスに乗ってガイドをしたりしていました。そのうちの2人は県外に行ってしまったのですが、3人はA町に残って、郷土芸能を頑張っていたり、おらが大槌夢広場で語り部をしたりしています。自分と同じモチベーションで頑張っている友達がいるというのは今も変わらず支えになっています。
佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)