被災者の証言

被災者の証言

M・A 氏

M・A 氏

当時26歳、アルバイト、A町在住。
自宅は全壊。

自宅はローンを完済したばかり。家族は助かったが、津波で友人や隣人が亡くなる。母親の実家で避難生活の後、仮設住宅へ。自宅を失ったことを機にA町を出る提案をするが、父親の意向で地元にて自宅再建。自身は被災地支援でB県に来た人と結婚し、現在はC市で暮らしている。

被災状況と住まいの移動

被災当初の状況を教えていただけますか。

自宅は津波で全壊でした。私はC市で働いていて、今日は早退しようかなと思っていたら地震が起きて、買ったばかりの車が津波で流されてしまったので、震災の2日後ぐらいに、ヒッチハイクで何とかA町に戻りました。町に入ると高い建物が結構残っていたので、まさか自分の家が壊れているとは思いませんでしたが、何か町が茶色いな、家までたどり着くのは大変そうだなと思い、確実に行ける母の実家に行きました。

着くと親戚から「生きてたか。あんたの家はもうないぞ」と言われました。家族は無事らしいということでしたが、まだ誰も帰ってきていませんでした。

母が帰ってきたのは、私がA町に戻ってからさらに2日後ぐらいです。いったんD山に逃げたものの、山火事でそこも離れなければならず、そこにいた近所の知り合いに「一緒に来ないか」と言われて、山道を抜けて、その人の実家に行っていたそうです。高校にいた弟も、母と同時ぐらいに帰ってきました。

母がD山に行ったときに父が生きているのを見たと言うので、父が生きていることは分かりましたが、会えたのは震災の1カ月後でした。父はA町役場の職員でしたが、震災の前に本庁舎勤務からD山庁舎勤務になっていたので無事でした。勤務先が変わったときは自宅から遠くなると文句を言っていました。

仮設ができたのが確か6月ぐらいだったので、それまで母の実家で避難生活をさせてもらいました。

仮設にはスムーズに入れたのですか。

実は父が仮設住宅の用地交渉担当で、母の実家が提供した畑にも仮設が建ちました。その横で土砂崩れがあり、道路が崖崩れで封鎖されて、一般の人が住むには多少危険があったのですが、せっかく整備された仮設なので、そこに入ることにしました。

仮設暮らしの後はどうされたのですか。

平成29年(2017年)ごろに、父がEに新築をしました。元の土地は住めなくなり、町が買い取りました。元の家は住宅ローンを完済したばかりでしたが、もう住めないエリアだとはっきり分かったので、かえって気持ちの区切りは付けやすかったと思います。

私は結婚して、新築の家に1年も住まずにC市へ引っ越しました。

賃貸ではなく新築を建てようと思われた経緯を教えていただけますか。

私は「家がない今、住む場所は自由だから、これを機にA町を出よう」と言ったのですが、父がやはり生まれた場所にこれからも住みたいと言って、父の意見でA町に住み続けることになりました。役所職員だったので、町の復興を自分の目で見たかったのかもしれません。

住むにしても、家を建てると今後一生、A町に住まなければいけない気がしたので「賃貸でいいんじゃない?」と言ったのですが、公営住宅や県営住宅は世帯収入で家賃が決定するのですよね。うちは父も私も母も働いていて家賃がとても高くなるので、それを払うお金で家を建てられるし、土地は母の実家が協力してくれると言ってくれていたので、それなら建てた方がいいのではないかということで新築を建てました。最初は平屋でいいという話だったのですが、気持ちが盛り上がってきたことと、念のため水害に備えて、結果2階建てを建ててしまいました。

今、私のC市の家は賃貸なのですよ。もしお金が有り余っているならもちろん家を建てたい気持ちもありますが、家がないのも逆に自由でいいな、いろいろな所に移住する住み方もいいなと思って、あえて賃貸でいます。

仕事への復帰

避難生活の間、お仕事はどうされていたのですか。

私は当時、労働基準監督署でアルバイトをしていたのですが、しばらく行けない期間がありました。上司や会ったこともない方からの支援とはげましにとても感謝しています。

仕事に復帰できたのは仮設に入る直前なので、5月ぐらいだったと思います。労基署の事務所は海上保安庁の建物の3階にあって、海辺なので流されてしまったので、ハローワークを間借りして、狭い一室に事務所をつくって仕事をしていました。

どうやって通っていたのですか。

バスです。でも、しんどくて、もう無理と思って、震災の年の冬にまた車を現金で買いました。1台目の車の保険でどうにかなるのではないかと思っていたのですが、そういうオプションに入っていなくて、「対象ではない」と言われて絶望した覚えがあります。

今でも労基署でアルバイトをされているのですか。

今は違う場所で働いています。震災をきっかけに、我慢して生きる人生が嫌になって、いろいろな職を経験しようと思いまして。震災の年、1月21日に亡くなった祖母の忌み明けが1日ずれていたら死んでいただろうし、仕事を早退していたら死んでいただろうし、父もA町役場本庁舎勤務だったら死んでいただろうし、自分たちが生きているのは不思議だなと思うのです。近所の家では、お嫁さんが風邪をひいていて、旦那さんも看病するために仕事を休んで自宅にいました。そして流されて亡くなってしまった。生き死にを分けるのは本当に何なのか分かりません。せっかく生きているのだから、やりたいことをして生きていこうという気持ちになって、ずっとやりたいと思っていた四国遍路にも行ってきました。もう願うこと祈ることしかできなくなったとも言えます。

夫との出会い

ご主人とはどこで出会われたのですか。

震災後、A町でいろいろなボランティアがあって、地元の若者も手伝いに駆り出されていたのですね。その中で知り合いが「あんたたち仲良くなれそうだ」と言って、同じ年頃の人たちを紹介してくれて、よく飲み会をしたりして遊んでいたのですが、その中で仲良くなったメンバーの一人です。

夫はF県生まれのG県育ちで、被災地支援でB県に入ってきて、NGOのシャンティ国際ボランティア会で本を届ける活動をしていました。最初は一生B県にいるつもりはなく入ってきたみたいですが、NGOのプロジェクトが終了した後、こちらで個人事業主として法人を立ち上げて、経験もないのに自伐型の林業を始めてました。今3年目ぐらいです。夫はこの仕事をこれからも東北でやっていきたいと言っています。

祖母が震災から守ってくれた

震災の経験の中で、特に印象に残っていることはありますか。

先程も話しましたが、祖母が震災の年の1月21日に亡くなったのですが、生きているとき、「死んでも守る、死んでも守る」とずっと言っていたのです。何を言っているのかなと思っていました。震災の前日3月10日が四十九日だったので、母とは「忌み明けの11日には気持ちを明るくカラオケに行こう」と約束していました。震災の前日の夕方には、私たちの家に親戚を呼んで、大人数で食事をしました。お酒を飲んでいたし、足が悪い親戚もいたので、これが1日ずれていたら、多分親戚も家族もみんな流されていたと思います。

流された家の跡地に行ったら、基礎しか残っていない敷地内にハサミが刺さっていました。それは祖母が使っていたハサミでした。祖母は自分の持ち物にイニシャルの「S」というシールを貼っていたのです。そのハサミが、誰かが刺したかのように敷地内に残っていました。家のものは町のあちこちに流されてしまったのに、なぜかハサミはそこにあって、これは絶対に祖母が守っているのだなと思いました。

メッセージ

最後に伝えたいことがありましたら、お願いします。

死んだら買ったものは何も持っていくことはできないのですが、思い出だけは津波にも流されないし、死んでも棺おけの中で自分に宿っている気がするので、もので幸せを得ることもですが、おいしいものを食べたとか、誰と何を話したとか、そういうのを日々感じながら生きたいなと思います。全てを失っても記憶だけは失われないので、日々を味わいながら生きてほしいです。

聞き手

佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)

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