T・H 氏
当時小4、母・母方の伯父・母方の祖父母と同居、A市在住。
自宅(持ち家)は全壊。
当時小4、母・母方の伯父・母方の祖父母と同居、A市在住。
自宅(持ち家)は全壊。
三つの避難所と仮設住宅を経て災害公営住宅へ。仮設暮らしのときから父も同居となる。父の面前DV、精神疾患を抱える母のケア、祖父母の介護の手伝いを経験しながら子ども時代を送る。高校卒業と同時に県外の大学へ進学し、就職を機に地元に戻る。
最初は避難所です。B市のC小学校の体育館に1~2週間いて、そこが学校が始まるからということで、A市のD小学校の教室に移り、そこも1~2週間で学校が始まるということで移動になり、同じ市内のE小学校の近くの地区センターに行きました。そこは津波が入って壁に泥が付いていたのですが、洗い流して、6月くらいまでそこにいました。そこから仮設住宅に移り、平成28年(2016年)に災害公営住宅に移動しました。
高台に避難していて、夜、車で自宅に戻ろうとしたら、自宅の所まで津波が来ていて戻れなくて、水がない所、水がない所といってたどり着いた先がC小学校でした。
そうです。祖父母、伯父、母と一緒に移動しました。そのとき父は別居していて、B市にある父の実家にいました。
C小を出るときに、A市内に戻った方がいいということでD小を紹介されたのです。結局そこも閉めることになってしまい、避難所の中で受け入れ先の振り分けがありました。通っていた小学校に近い方がいいというのと、うちは祖父母が病気をしていたこともあって、優先的に地区センターに移動させてもらえました。
泥が付いていたり、においがしたり、周りは瓦礫でいっぱいで、大人たちは嫌だっただろうなと思います。でも、私は子どもだったのであまり気にしていませんでした。むしろD小の教室にいたときの方がしんどかったです。足を伸ばして寝られないほど狭くて、パーティションも何もなかったのです。地区センターでは、少し広めの部屋にもう一つ別の大家族と入り、段ボールの仕切りもできたし横になって寝ることもできて、それが私はうれしかったです。
うちは2戸1なのです。なので、集合か戸建てか微妙なラインです。
父、母、私が住んでいます。県外の大学に進学したのですが、今年、B市で就職したので、戻ってきてここから通勤しています。祖父母は仮設のときに亡くなり、伯父は近くで一人で暮らしています。
学校がスタートしたのが4月の中旬、下旬ぐらいだったので、そのときから普通に通っていました。
1階部分は全部浸水したので、1階にあった職員室や保健室、校長室、放送室、家庭科室などは卒業まで使えませんでした。
あとは、みんな避難所暮らしで大変だったり、経験の違いだったりで、子どもたちが荒れに荒れまくって大変でしたね。いじめがあったり、ガラスを割ったり、殴り合いのけんかも結構ありました。
中学は1階が腰ぐらいまで浸水したみたいで、体育館が使えなくて、入学式や体育の授業は近くの体育館を借りてやっていました。在学中に改修が始まって、卒業式は新しい体育館でできました。
中学もそれなりに荒れていましたね。特に同じ小学校の1個上の先輩たちがちょっと危なかったかなと思います。
高校はF山の上なので浸水していませんでした。ただ、震災を経験したことによる貧困だったり、家庭環境の変化による人間関係の難しさだったり、精神的な影響はすごくあったかなと思います。私自身もそうだったので、周りからはよく感じ取れました。
震災後、仮設のときから父と同居することになり、母に対するDVがありました。私からしたら面前DVなので心理的虐待に当たります。あと、母が精神障害を患ってしまい、そのケアをしたり、祖父母が体調を崩して要介護になってしまったので介護の手伝いもありました。金銭的な面では、震災後に義援金や就学支援金をもらっていたのですが、それを父が勝手に全部使ってしまったり。本当に踏んだり蹴ったりです。
大学では友達とルームシェアをしながら生活していました。入学金や学費、生活資金を父が出してくれる予定は一切なかったので、日本学生支援機構やあしなが育英会からお金を貸与してもらい、個人的に知り合いになった財団からお金を援助してもらい、大学の成績優秀者の学費免除を使い、バイトもしつつ、何とか4年間を終えました。
県外に出たのは、親と距離を置いてみたかったのも確かにあります。あとは、精神保健や福祉の勉強がしたかったのですが、そういう大学で授業料を全額免除してくれるところが県外にしかなかったからです。
就職するときに戻るかどうか迷いましたが、母のことが心配だったのと、父がお金を使ってしまうので監視しなければいけなくて、就職のご縁も頂いたので腹をくくって戻ることにしました。
災害公営住宅ができるときに住宅会議というのがあって、世帯主が参加しなければいけなかったのですが、父が文字を読んで理解することが苦手なので、私がついて行って解説をしていました。父に「これはどういうこと?」と聞かれるので、「こういうことだと思うよ」という話をしていましたね。なので、自分たちがどこに住むのか、自分たちの優先順位は幾つなのかというのは、中学生ながら知っていました。
中学のときに母が警察に連れていかれてそのまま入院して、学年主任に相談したら「今解決を求めていないんだよね?」と突き放されたことがあって、そこからは誰にも相談していませんでした。
高校に上がってから、母が手が付けられない状態になり、スクールソーシャルワーカーに相談したら、周りが動いてくれることが少し増えましたが、状況自体はあまり変わりませんでした。ただ、スクールソーシャルワーカーという存在を知れたことが大きかったです。精神保健福祉士という国家資格を持つ心の問題を抱える人をサポートする人だと知り、私がそれになればいいと思って大学に入りました。
大学で知識を得て、G県の保健所や市役所に連絡を入れて、母の精神科への入院・退院支援、地域移行支援へとつなげることができました。今、母は通院しながら安定した生活を送れています。相談して何かが変わったというより、一緒に悩んでくれる人を高校で見つけて、それが今の自分につながっている感じです。
周りの大人が頼れなかったので、自分がおかしくなったら、それはそれでまずいというのもありましたし、高校で同じ思いをしている友達がいて、「しんどいよね」「つらいよね」「マジふざけんな」みたいな話をして支え合えたのもあります。その友達もみんな自分なりに努力しているので、私も道をそれることなくここまで来られたのだと思います。
一番伝えたいのは、自分を大切にしてほしいということです。本当にしんどくて死んでしまいたい、殺してしまいたいと思うこともあるかもしれませんが、しんどいことは死ぬまでは続かないと思います。ただ、自分が動かなければなかなか変わりません。どんな結果になっても自分で選択してやったことに絶対後悔はないと思うので、取りあえず動いてみてほしいです。絶対に家族が大事とか、家族のことを守らなければいけないということは一切ないです。自分がいなくても家族は生きていけるので、自分が苦しくて死んでしまったり、誰かを殺して自分を傷つけるのであれば、逃げてしまえばいいと思います。助けを求めてもいいし、捨ててもいいと思います。そして周りの人は、その人のことをかわいそうな目で見るのではなく、まずは話を聞く、肯定する、共感することから始めてほしいと思います。
佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)