A・J 氏
当時高1、B市で一人暮らし。
C市の実家は流失。
当時高1、B市で一人暮らし。
C市の実家は流失。
たまたま実家に戻っていたときに津波に遭い、半月入院。退院後、母方の実家での療養期間を経てB市に戻る。D県の大学を卒業後、C市に戻り就職、結婚し中古住宅を購入。つまらないまちだと思い離れた地元だったが、戻ってきて、まちの良い変化を感じている。
僕は当時高校1年生で、B市で一人暮らしをしていました。C市の実家に母と父方のおば、父方の祖母の3人がいました。震災のとき、僕はたまたまC市に戻っていて、津波で家ごと流されて、半月ぐらい入院しました。
まずはC市にある母方の実家に行きました。僕以外の家族が全員そこに避難していたので。退院したときはまだ歩ける状態ではなかったのでそこで療養した後、5月の頭にB市に戻りました。
高校卒業と同時にD県の大学に進学して、大学卒業後はC市に戻って、JFというミュージアムを運営しているIEに就職しました。そこでまちづくりの仕事を5年間した後、3・11メモリアルネットワークに転職しました。
2年前に大学の同期と結婚して、中古住宅を買って今月新居に引っ越しました。震災から13年たってやっと落ち着いたなという感じがあります。
B市に住民票を移していたので、罹災証明が下りませんでした。家族で僕だけ被災者ではないという扱いになって、別にそれほど困ったわけではないのですが、ちょっとびっくりしました。病院の入院費・治療費に関しては、当時は病院に緊急支援のような形で国からお金が出ていて、無料で治療も受けられたので特に問題はありませんでしたが、その後の家賃などは自分で支払いました。
そうですね。それはあります。
あと、高校は被災していない人たちが多かったので、そこのギャップとか、すごく気を使われている感じは日々ありました。それでも、学校の中に数名、EGから通っていたり、一緒にC市から通っていた同級生もいたので、そういった友達とか、あと本当に近しい友達のフォローはかなり感じられて救いになりました。
人によるというのが大前提ですけれども、僕は気を使われると距離を感じてしまうので嫌でした。やはり親友たちが震災前と変わらず接してくれたのが救いでした。震災後、最初に会ったとき、親友にすごく怒られたのです。ニュースでは「奇跡の救出」と言われましたが、親友は僕の性格を大体分かっているので、「絶対おまえの行動が悪い。なんで逃げなかったんだ」とストレートに批判してくれました。「何やってんだよ」と肩をパンチされて、その震災前から変わらないノリがすごく精神的な支えになりました。
本来はそうなのですが、ニュースになった人が合格したというのが理事長に伝わったらしく、少しだけ学費の優遇をしていただきました。私学なのでそういうことができたのだと思います。
そうですね。父は、はり灸マッサージを開業しています。C市の家の1階部分が店舗だったのですが、一つのエリアだけだとなかなかお客さんがいないみたいで、いろいろな所で仕事をしています。私が一人暮らしをしていたB市の家にたまに来てB周辺エリアでお客さんを取ったり、FHの方でも仕事をしたり、震災当時はGIで仕事をしていました。今はFHに拠点を移しています。
母は旅行会社で働いています。震災前はC駅前の支店で勤務していたのですが、そこがなくなってしまったので、震災後はHJ支店に異動して、その後、B支店で今も働いています。定年を迎えているので嘱託です。
家族の中で住む場所の変化はすごく激しかったですが、私以外は全員、罹災証明が下りていたので、住居の手当が多少付いていました。
大学の学費も、理事長のご厚意と、自分でもバイトをしていたのと、D県はすごく家賃が安いこともあって、それほど苦労した感じではないと思います。
うちは元々「それぞれ適当に暮らせば」という感じの家なのですが、正月ぐらいは全員実家に戻って一緒に過ごしましょうという雰囲気がありました。それが震災で集まれる場所がなくなったことで、家族のつながりが希薄になったとは思います。
所属は営業と販促事業部でした。ミュージアムのグッズを販売したり、ECサイトの運営をしたり、大学で美術を学んでいたのでグッズのデザインもしました。
正式な団体職員になってからは2年ぐらいです。ただ、IEにいたときから語り部活動をしているので、つながりはもっと長いです。
震災後はほとんどC市に戻らなかったのです。戻る理由もないし、いまさら戻ってどうなるのかなと思って戻らなかったのですが、大学で教職課程を取っていたので、3年の終わりに教育実習で卒業した学校に行かないといけなくて、嫌々C市に戻ったのですね。そのときに、せっかくだからと思って自分の家の跡地を見に行ったのです。
震災後初めて行ったので瓦礫の山をイメージしていたのですが、もう5年もたっていたので区画整理も全部終わってきれいになっていました。さらに道も全部変わっていて、自分の家までたどり着けなかったのです。生まれ育った場所なのに全く分からなくなっていて、そのとき初めて喪失感みたいなものを感じて、同時に、自分が5年間放置していた地元をこんなにきれいにしてくれた人がいると思うとすごく申し訳なさを感じたのです。自分の家の前の雪かきを誰かにしてもらったような申し訳なさというか。そこで初めてC市に戻るのもありかなと思って、C市の仕事を探し始めて、何となくJFを調べました。
実は僕が小学校1年生のときにJFがオープンして、学級活動でまちを歩き回ってマンガロードマップを作ったり、IEの当時の社長に話を聞いたりして、これからC市がマンガで楽しいまちになっていくのだというイメージを持ったことをすごく覚えていて、それで調べてみたら求人が出ていたので応募しました。
JFでいろいろな勉強をさせてもらったのですけれども、もう少し他のことも勉強したいなと、キャリアアップみたいなことを考えていた時期にちょうど人事異動のタイミングが重なって、少し転職を考えていました。1年契約の契約社員だったので、5年という節目で辞めさせてもらって、GIの企業でインターンを受け入れてもらう予定だったのですが、コロナの第4波でそれがなくなって、やることがなくなってしまったのです。そうしたら、僕が暇だというのを聞きつけて、3・11メモリアルネットワークの語り部の依頼がすごく増えたのです。ちょうどそのタイミングで、みやぎ東日本大震災津波伝承館の委託がC観光協会から3・11メモリアルネットワークに代わったので、伝承館の解説員もやらないかと誘われて、解説員として雇用されたという経緯です。
意外といいなと思います。震災前はあまり面白いまちではないと思っていたし、震災があってC市はもう駄目だという気持ちもあったのですが、戻ってきてみたら、震災前より面白い人がたくさんいると思いました。それこそIEの事業で「コモン・シップ橋通り」というのがあって、ボランティアで入ってくれた人たちが店を出して屋台村のようになっていたのです。あんなものは震災前にはなかったし、震災前にやっていたら「若者が何をやっているんだ」と言われるようなまちだったのです。そういった意味ですごく変わったと思うし、面白いことをやってもいいと思える土壌ができてきたのかなと感じます。
佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)