被災者の証言

被災者の証言

I・S 氏

I・S 氏

当時31歳、旅館勤務、A市在住。
自宅(実家)は全壊判定。

両親が建てた実家が津波被害を受け、妻の実家へ避難。その後、仮設住宅で7年生活し、子どもの成長や学校のことを考えて復興公営住宅へ。被災直後から職場の復旧と被災者支援に取り組む。両親は傾いた家をリフォームしてしばらく住んだ後、土地区画整理事業の代替地にて自宅再建。

発災時の状況

当時の家族構成を教えていただけますか。

私の両親と妻と、子どもが1人です。両親は当時60代で、妻は私と同じ30代、子どもは1歳でした。

お住まいの被害はどうでしたか。

全壊判定を受けました。私が中学1年のときに父が建てた家なので、要は実家ですね。A市内にあって、海から直線距離だと100メートルあるかないかの所です。

住まいの移動

全壊で住まいがなくなった後、ご家族の拠点はどこになるのですか。

私たち夫婦と子どもは妻の実家に行きました。9階建ての市営住宅で、1階に市の施設が入っていて、2階以上がアパートみたいな感じで、妻の母親が一人で住んでいたのです。その建物も2階まで津波が来て、電気とかは使えなかったのですが、部屋は5階で住む分には問題なかったので、仮設住宅に入るまではそこにいました。

仮設住宅は5月に決まりました。子どもが1歳だったので優先順位が高かったのです。7年ぐらい仮設にいて、平成30年(2018年)に仮設のすぐ近くの復興公営住宅に移りました。今もそこに住んでいます。

ご両親とはお住まいが分かれたのですか。

私の両親は、最初は避難所にいました。その後、実は父が入院してしまったのです。逃げ遅れて完全に津波にのまれたのですが奇跡的に助かって、2日間ぐらい我慢して避難所にいたのですが、肺炎になってB市の病院に救急搬送されて数カ月入院しました。母もそれに同行して、退院してからは親戚の家にお邪魔しましたが、やはり親戚とはいえ気を遣うではないですか。それでちょっと参ってしまって、全壊判定を受けた実家に住み始めました。傾いていて、壁もない状態だったのですが、仮設住宅が決まる8月までその家にいました。

仮設住宅は別世帯扱いだったのですね。

別居するつもりは全然なかったのですが、仮設住宅はみんなで住むにはどうしても狭いので、A市の担当の人が世帯分離を勧めてくれて、2世帯分の仮設住宅を割り当ててくれました。

ご両親は仮設住宅にはいつまでいたのですか。

はっきり覚えていないですが、私たちよりは早く出ました。実は、もう仮設は狭くて嫌だと言って、全壊判定を受けた家をお金をかけてリフォームしたのです。傾いたままなのですけれども、そこにしばらく住んでいました。その後、土地区画整理事業でそこは道路になり、すぐ近くにあてがわれた代替地にまた家を建てました。自力再建です。

復興公営住宅での暮らし

復興公営住宅にはすんなりと入れましたか。それとも、抽選で結構待ちましたか。

抽選で待ったわけではないのですが、入ったのは結構後の方です。というのも、私たちは地元とは別の地区の仮設住宅に入ったのですが、住んでいるうちに子どもが小学生になってしまって、本来通うはずの小学校ではない小学校に入学したのです。それでどうしようかと数年単位で考えているうちに仮設暮らしが長くなってしまいました。

復興公営住宅への移動の決め手は何だったのでしょうか。

やはり子どものことですね。再建するであろう両親と一緒に暮らすパターンも考えましたが、それだと転校しなければいけないので。欲を言わなければ別に仮設でも問題なかったのです。市からすれば早く出て行ってほしいでしょうけれども、家賃がタダですし、親がどう再建するか決まるまでは仮設でもいいかなと思いました。正直、仕事にかまけて移動の話から目を背けていた気もします。でも、子どもの成長を考えると仮設の環境は全然駄目だと思いますね。やはり自分の家のせいで周りに迷惑をかけたくないので、子どもに我慢をさせることがすごくありました。

復興公営住宅には、集会所や町内会はあるのですか。

集会所はありません。少し離れていますが、同じ地区にあるもう一つの大きな公営住宅の1階にA市の生活応援センターがあって、そこに公民館などがあります。

町内会活動は、年配の方々はラジオ体操をしたりしています。私も最初の頃は自治会に随分勧誘されましたが、昼間は家にいないのでお断りしました。代わりに妻がそういう活動に参加していて、任せきりになってしまっています。

両親の自力再建

ご両親は、元の家のリフォームと代替地での自力再建の資金はどうされたのでしょうか。

もちろん借金はしています。両親の経済状況はよく分かりませんが、父は高校を出てからずっと自動車のディーラーで営業をしていて、母も地元の生コン会社の経理事務をしていたので、年金もそれなりにもらっているのではないかと思います。借金については、亡くなったら相殺できるようにちゃんと生命保険に入っていると言っていました。

旅館の再開とNPOの活動

震災のときの勤め先を教えていただけますか。

旅館に勤めていました。大規模半壊扱いですが、4階建ての2階まで津波が入ってめちゃくちゃになり、3月末で従業員は全員解雇になりました。でも結局、再開するためにずっと関わって、平成24年(2012年)1月に再開しました。

一方で、震災の年の4月からボランティアコーディネートを独自でやり始めて、その後、北海道から支援に来たNPOねおすに6月から雇用されました。町の復旧と旅館の再開の両輪でずっと動いていましたね。

NPOねおすには、いつまで雇用されていたのですか。

平成23年(2011年)の年度末までです。4月に、さんつなを立ち上げました。旅館の方も、回り始めていたので、もういいかなと思ってだんだん離れていった感じです。

さんつなについて教えていただけますか。

最初はボランティアコーディネートからスタートした団体です。いろいろな支援者がいらっしゃるのを独自で受け入れて、こういう支援ならあそこにつなごうということをやり始めたのが原点です。そこから紆余曲折を経て、今は次世代育成をメインでやっていて、防災や震災伝承に若者が関わるシーンを作る活動をしています。元々は一般社団法人だったのですが、今はNPO法人にする移行段階です。

ご自身が被災者であると同時に被災者を支援する側でもあるというのは、どのような心持ちなのでしょうか。

家族全員が助かったからできている部分は大きいですし、いわゆる市民活動を始めたのは震災の7年ほど前、24歳からなのです。要はまちづくりのようなことに足を突っ込んでいて、地域ともつながりがあったので、その延長でできたというのはあります。

ベタな話ですが、やはり自分もすごく落ち込んだ時期はあって、外から支援者がたくさん来て地域が変わっていくのを見て前向きになれたのですよ。人によって復興のスピード感はまちまちですが、そうやって進めていく人を増やさないと駄目だと思って、それで外の人を受け入れることにこだわってボランティアコーディネートを始めたのです。

旅館の常連さんたちが「支援で必要なものはないか」とすごく問い合わせをくれて、いろいろなものを送ってくれたので、それを無駄にしないようにという気持ちもありました。

メッセージ

次の災害で被災してしまった人に、ここが大事だというメッセージを残すとしたら、どんなことがありますか。

私の場合、以前から持っていたネットワークを活用することで初動が早くできたと思います。震災の後、いろいろな人たちが動き始めるではないですか。その後だんだんいなくなるわけですけれども、まちづくりの熱が35度5分ぐらいだったのが、いきなり37度5分に上がると、みんな、ばたばた倒れてしまうので、少しでも緩いつながりを持っておくことは大事かなと思います。

あと、うちは同居していて、震災後に世帯分離したので、生活再建支援金や義援金は全部両親に入り、われわれには一銭も入りませんでした。別居がいいか悪いかは分かりませんが、震災前に形だけでも二世帯状態にしておけば入ったのになというのはありますね。

聞き手

佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)

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