被災者の証言

被災者の証言

O・Y 氏

O・Y 氏

当時50歳、農家、A町在住。
自宅は原発から11キロで、津波浸水なし・一部損壊。

地震発生時は家族でB市のショッピングモールで買い物中。B市民体育館に避難した後、A町に戻るが、原発事故で全町避難となりC市の避難先へ。その後、同市内で自宅を新築。A町の自宅はリフォームローンが残っていたが解体し、代わりとなる居場所として倉庫をリフォームしカフェを始める。

住まいの移動

お住まいの被害はどうでしたか。

自宅は福島第一原子力発電所から11キロのA町にあったのですが、海沿いではないので津波は来なくて、被害というと家のあちこちの痛みになります。ぐちゃぐちゃにはなりましたが、つぶれたわけではありません。

3月11日以降の移動の経緯を、順を追って教えていただけないでしょうか。

震災当日は家族4人でD県にいました。主人がEで会議があって、長女(当時介護職1年目)が車を買ったばかりだったので慣らしで一緒に行くことになり、次女(当時高3)も高校を卒業したらF市の学校に行くことが決まっていたので、その準備の買い物で付いていきました。私は本当は仕事があったのですが、家族に「行こう」と言われて、仕事を次の日に回して一緒に出かけることにしました。

主人が仕事の間、私たちはB市のショッピングモールにいました。3階にいたらすごい揺れが起きて、天井から物が落ちるわ、近くにあった靴が全部崩れ落ちるわで、これは駄目だと思って娘を引き連れて下に下り、外に出ました。でも、そのうち津波が来るのが見えて「屋上に避難しろ」と言われました。その後は「B体育館に避難しろ」と言われて、携帯で主人と「1時間に1回だけ連絡しよう」と約束して体育館に行きました。主人は普通だと車で1時間の所にいたのですが、私たちのところに来たのは夜の10時半を過ぎていました。

その日の夜に合流できたのですね。その後はどうされましたか。

車のテレビを見て、帰り道の6号線がストップしていると知りました。それでもA町に帰ろうと山道をずっと走って、A町に着いたのは夜中の2時半でした。家の中がぐちゃぐちゃだったので、家はそのままにして近くの公民館に行ったのですが、長女が「(勤め先の)介護施設に行きたい」と言うので、明るくなってから主人が車で施設に送りました。その頃には全町避難のサイレンが鳴っていて、C市にある私の実家と連絡が取れたので14日にそこに避難すると、娘の先輩から電話が来て、「Mちゃん(娘)が死んじゃうから迎えに来てください」と言われました。就職して1年にも満たない中で頑張ろうとして、ご飯もままならないまま100人の患者さんを別の場所に移動させていたので、自分でも分からない疲れと緊張があったのだと思います。「分かりました。どこにいますか」と聞いたらG市だったので、3人で迎えに行きました。それが15日です。

娘は「入所者さんと職場の仲間を置いて帰れない」とたんかを切りましたが、「あなたがいることで迷惑がかかるのよ」と言って、意識がもうろうとする娘を毛布にくるんで実家に連れて帰りました。

ご実家での生活はどれぐらい続いたのでしょうか。

10日間ぐらいです。避難生活が長引きそうだったので、実家の知り合いに住む所を探してもらって、お寺の所有物の建物を借りて、そこに移動しました。最初はお金を払って借りましたが、後で借り上げ住宅になりました。布団を4組だけ実家から借りて、あとは何もないところでしたが、近所の人が炊飯ジャーや茶碗を貸してくれて、そこに4年ぐらいいました。放射能のうわさもあったので、なるべく出かけず、質素に暮らしました。

主人の会社がH市に拠点を移したので、主人はそちらで単身赴任になり、長女は6月ごろから近くの介護施設で働くようになりました。次女は5月にF市の学校が始まり、3年間その仮住まいから通いました。私は農家の傍ら仕事をしていたのですが、職場だったA営業所がなくなり解雇になったので、C県のIにある本社でアルバイトをしました。

ただ避難しているというのが自分で許せなかったので、陸上をやっていた子どもたちと一緒に走ることを始めて、あとは川から拾ってきた石にお地蔵様とかの絵を描き始めました。他にも切り絵とか、いろいろなことに挑戦しながら、アルバイトもしてという時間を過ごすようになりました。

震災の1年前から警察協議会で活動していたので、原発の廃炉に関わる県民会議にA町代表として声をかけていただき、農業委員会にも声をかけていただきました。A町のために何かしたいという思いはずっとあったので、それらも並行してやらせてもらいました。

当時、近所のおじいさんが、娘が通学で駅まで行くとき必ず「いってらっしゃい」、帰りも「おかえり」と言ってくれていました。「Oさん家族が来てくれて良かった」と言って、今でも電話をくれて、行くとチョコレートを買って待っていてくれます。

借り上げ住宅に4年間住まわれて、その後は?

もうA町には帰れないと思って、C市内に家を建てました。その頃のA町はゴーストタウン化して、帰るときは毎回防護服を着て、自分の家の中にも土足で入り、何にも触れてはいけなかったのです。それで余計に愛おしくなってしまって、A町の色を感じたいと思って草木染を始めたり、頂いた役職も大事にしながら、人との関わりを持つようにしていました。

新築を決めた理由

新築を建てようと思った一番の理由は何だったのでしょうか。

借り上げ住宅は部屋が狭いので、服は段ボールに入れて、布団を重ねて寝ていたのですが、古い建物で湿気が多くて、朝になると布団がびしゃびしゃになるのです。年頃の子どもたちに日の当たる家での暮らしをさせてあげたいと思って、家を建てることにしました。

資金はどうされたのですか。

主人が全部やっていたのでよく分かりませんが、A町の家は1度改築していて、そのローンが400万円ぐらい残っていたのです。それはもうお金がないのでストップしたのと、主人の父が震災の半年前に亡くなったのですが、いろいろあって主人に名義変更できず、家の評価が難しかったのですね。田んぼと畑は名義変更していたので、その評価でもらったお金と、原発事故のお金、とにかく震災後に頂いたお金は全部子どもたちにやらないで、将来家を建てるために貯めていました。その後、主人が単身赴任でお金を稼ぐようになり、私も長女も働くようになり、長女は次女の学校のお金についても協力してくれました。

紙芝居の活動

Oさんは紙芝居の活動もされていますよね。

借り上げ住宅で暮らしていた頃、農業委員の会議の後に「紙芝居をやらないか」と誘われました。平成26年(2014年)のことです。以前、A町で婦人消防隊の活動をしていたとき、幼稚園や保育園に紙芝居をしに行って、すごく目の輝く子どもたちを見ていたので、声をかけてもらったとき、やりたいなと思いました。7月から紙芝居の活動が始まり、震災前のA町の物語や、その後のいろいろな人たちの思いを紙芝居にして伝えていくことになりました。

先ほどの長女の話は「母と娘避難物語、帰らない」という紙芝居になりました。その前に「無念」という紙芝居も作りました。私たちがずっと一緒に活動した消防団の訓練分団長が手記を残していて、目の前で助けを求める人を置いて避難しなくてはいけなかった悔しい思いを知っていたので、それを紙芝居にして、さらにアニメーションにして全国を回り、フランスにも行きました。

OCAFE(オカフェ)という居場所

A町の避難指示が解除された後、そちらの自宅はどうされたのですか。

家族で話し合い、解体することにしました。その代わり、帰る場所をつくろうということで、私が仕事で使っていた倉庫をリフォームして、解体した家から娘たちが背比べをした柱だけ移築して、オカフェをつくりました。ボランティアの人が休んだり、地域の人も集える場所にして、紙芝居もそこで読むようになりました。そうしたら全国から人が来てくれるようになって、ウクライナから来た人もいました。

去年は、オカフェで娘の結婚式をしました。私の草木染で招待状を作り、娘は相手との出会いを自分で紙芝居にして、とにかく手作りの結婚式です。

A町の駅前周辺は少しずつ変わってきましたが、オカフェの周りは田んぼや畑があって、草だらけで不便です。でも、それでいいのです。私たちはここで暮らしてきて、ここで震災を体験して、ここが帰る場所なので、ずっとこういう場所であってほしいと思っています。

主人は、地域の人たち15人ぐらいで組合をつくって、うちの田んぼと畑で米作りを始めました。きちんと検査して、A町の米ができています。野菜も作って、そのタマネギで私は草木染をしています。この前、東京農大生さんが来て、草木染で袋を作って、A町の米を入れて販売してくれました。

陶芸も少しやっています。手びねりで器を作り、それでコーヒーを出したいと思っています。

これからの災害で被災した人へ

これから起こる大きな災害で被災した人が、その先の人生を歩んでいくためのコツをOさんから伝えるとしたら、どんなことがありますか。

私は最初、頑張ろう、頑張ろうと思っていました。でも頑張り切れないのです。「無念」のアニメーションの中に「頑張らなくていいんだよ、立ち止まってもいいんだよ、泣いてもいいんだよ」というせりふがあります。そのせりふに出合って、泣いてもいいんだ、立ち止まってもいいんだ、そこから考えようと思いました。あとはとにかく命を大事にしてほしいです。今の暮らしは当たり前ではないので、明日地震があったら、豪雨災害があったら、津波があったらどうするかということを、学校や職場、家庭で話し合い、いち早く命を守れるようにしてほしいと思います。

聞き手

佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)

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