被災者の証言

被災者の証言

K・M 氏

K・M 氏

当時中学2年生で、A町在住。
自宅は半壊したが家族(両親、祖父母、曾祖母)にけが等はなかった。

震災後、一家でB県、C県、D市と転居し、高校進学を機に、家族と共にE市内の仮設住宅に移った。Fの大学に進学したが、元々地元に戻ることは考えていて、大学卒業後はG市内での勤務を経て現在「ふたばプロジェクト」に就職している。

住まいのうつりかわり

震災後の住まいの移動過程について教えていただけますか。

3月12日の昼頃に移動し始め、最初は隣のH市に4~5日いた後、B県の親戚宅に1週間ほどいました。その後、父の弟が住むC県に移り、4月からD市に引っ越しました。通っていた中学校の分校が4月からI市にできるということで、そこに通うことにし、2次避難所の形で充てられたのがD市の旅館でした。その後、県の借り上げ住宅として充てられたのがI市の住宅で、I市では中学卒業まで1年間いました。

高校はどうされたのですか。

高校進学と同時に家族全員でE市内の仮設住宅に移り、2年半住みました。その後、現在の実家に当たる家をE市内で新築し、平成26年(2014年)秋に転居しました。進学先を決めるとき、結局はE市辺りに落ち着く感じに家族から仕向けられていたようにも思うのですが、E市には高校の選択肢が多いし、住みやすい所に行こうという話になり、E市に移りました。

県の借り上げ住宅というのは本来、自分でアパートや借家を見つけて仮設にしてもらうための手続きを取るのですが、借り上げを充てがわれた経緯について教えていただけますか。

役場に人数や年齢を申請し、提案してもらった結果、たまたま充てられた住宅が一軒家だったのです。両親が必死に探していたというイメージがあまりないので、充てられたと勝手に思っていました。私が入ったのは第3仮設で、私の祖父母と曾祖母は、歩いて行ける距離の第1仮設に先に入ってもらいました。第3はもしかしたら学生優先だったのかもしれません。

高校卒業後

その後のことを教えていただけますか。

Fの大学に進学し、J市に1年、L市に3年間住んで、地元に戻ってきました。当初から大学の4年間だけ外に出て、就職は地元ですると決めていて、社会人1年目はG県で住宅の営業をしていました。

その前に1度、M郡で職を探していましたが、なかなか職がなく、せめてG県内でという思いで決めたのが最初の職場でした。でもその後、A町の避難指示が一部解除されたり、実家の立ち入り規制が緩和されたりして、自分も戻って暮らしたいという気持ちが強くなり、転職を決めて令和3年(2021年)4月にM郡に戻ってきました。

移動の記憶

震災1年目にいろいろ移動されたのは結構大変だったと思うのですが、その中で記憶に残っていることはありますか。

移動の際、父が主に車を運転してくれたので、急な長距離・長時間の移動は相当負担になっていたと思います。中学生だった私は割とのんきで、すぐに帰れると思っていたのですが、1年ぐらいたってようやく自分が思うよりも帰ってくるのは難しいのではないかと感じました。でも、地元のことを大きく取り上げられているニュースは、建屋だの、原子炉だの、中学生の私にとって知らないことばかりで、何とも言えない不思議な感覚でした。他人事のように思えてしまうような感情のまま、取りあえず親に付いていくので精いっぱいだったと思います。

そんな中でも印象に残っているのは、一軒家といえども長い期間お世話になっているうちに若干ぎくしゃくしてきたり、他の場所を探さないのかという見えないプレッシャーを感じたりしたことでした。なので、大人はすごく大変だったと思います。

学生としてやらないといけないことと、自分の命や生活を守るためにやらないといけないことの間で心の葛藤などはありましたか。

早く帰りたいとずっと考えていましたし、私が初めて一時帰宅できたのは高校1年生のときだったのですが、そのときも目に見える変化はそんなになく、片付ければ住めるのではないかと逆に希望を抱いてしまったのです。町に入れないのがすごく不思議だったのを記憶しています。

いつ、どこの学校に通えるのかというのは漠然と不安でした。転校も考えたのですが、ニュースを見て、いじめに遭ったという話やうまく会話に入れなかったという話を聞いて不安を感じていたので、A町の分校ができることが4月に決まったのは精神的に救われた出来事の一つだったと思います。

結局は支援物資をたくさん頂き、人数は半分ぐらいになったものの、友達や先生と一緒に学校生活を送ることができました。私がそこまで不安定になったり、葛藤があったりした記憶がないのは、恐らく安心できる場所がちゃんと確保されていたからだと思います。

高校ではどうでしたか。

3年間、普通教室は仮設の校舎でした。周りにA町出身の子は1人もいなくて、9割はE市の人だったのですが、高校生活はすごく楽しく、原発のことが原因で変なことを言われたりせず、積極的に声をかけてくれる子が多かったので、嫌だと思ったことはなかったです。

ペットの子たちはどうなったのでしょうか。

室外犬が2匹と小型の室内犬2匹、猫が2匹いたのですが、猫は逃げてしまい、室外犬は私たちの避難生活が長くなってしまったため、おじさんが首輪を外してくれて野に放たれた状態になり、その後の行方は分かっていません。室内犬2匹だけは一緒に移動し、基本的に車の中に入れていました。その後、祖父母のいるアパートや仮設で面倒を見てもらい、E市の新居で合流しました。

次に被災してしまった方々へ

次に被災してしまったときにこれは大事だというメッセージを頂けますか。

私の場合はインフラやライフラインの遮断はあまり経験しなかったのですが、最も後悔しているのは、町にあるものの危険性や原発について正しい知識を持っていなかったために判断がきちんとできなかったことです。ですので、まずは自分の周りにあるものにきちんと目を向けてほしいと思います。

それから、いざ避難となったときにどうしていいか、自主判断が全くできておらず、町の指示に従ってみんなと同じ流れで動くような感じでした。それも大事なのですが、自分自身を取り巻く環境によって行動は全く変わってくると思うので、家族を守るためにどんな行動が必要なのだろうかと大げさに想像してみることが大事だと思います。

災害に対して備えていること

次の災害に向けた備えとして何かされていることはありますか。

仕事柄、地域の情報に敏感になろうと努力していることと、災害が起こったときにどう動くか、引っ越すたびにシミュレーションをするようにしました。昨年3月に大きな地震があったときもイメージどおりに動くことはできましたが、不安が結構大きく、備えても備えても足りないと感じました。何かあってもすぐ逃げられるように、ガソリンが半分になったら給油することも心がけています。

求め過ぎず、身の丈に合わせて

楽観的、活動的だとよく言われませんか。

思い悩むことは昔からそんなにないですね。高校2年のとき、「ヤング天城会議」という日本アイ・ビー・エム主催のプログラムに参加し、堂々と頑張っている同年代の人たちを見て、自分の気持ちを曲げないようにしていこうと思うようになりました。

高校生の段階で外の状況に触れられたのは結構大きいかもしれませんね。Kさんは戻る選択をされましたが、戻る側にとって大事なことは何でしょうか。

私も戻ってくるときはすごく悩みました。戻ってきたとしても、ゼロになった町で何か自分で起こせる力やスキルがないと役に立てないと思い込んでしまったからです。でも今は、戻ってきて割と普通の暮らしをすることも不可能ではないとようやく言えるようになりました。

私も戻ってくるまでは、元の町を求めてしまう部分がありました。町の景色が変わったのを見て、私が帰りたかった場所ではないと思うこともあったのですが、そのように思い込まず、まずは何回か足を運んでほしいですね。「前はこうだったよ」「ここが懐かしいな」と言える人が少しでも増えると、新しい町になっていくのではないかと思います。

「不便だと感じるところは何ですか」とインタビューで必ず聞かれるのですが、不便前提で話されているし、ある程度覚悟して引っ越してきているので、ネットショッピングができるこの時代に正直そんなに困っていないわけです。思っているほど住むことのハードルは高くないかもしれないということは、同年代の人に特に言ってあげたいですね。なので、求め過ぎずに今の身の丈に合った暮らしができているから、私はこれでいいと思っています。

聞き手

佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)

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