O・T 氏
当時54歳、会社員、妻は市役所職員。
A市在住。持ち家・戸建て。1階の鴨居まで浸水、全壊判定。
当時54歳、会社員、妻は市役所職員。
A市在住。持ち家・戸建て。1階の鴨居まで浸水、全壊判定。
当時はまだ住宅ローンの返済中。内陸移転も考えたが、年齢を考え再度ローンを組むことを避けたかった。防潮堤の整備、道路のかさ上げで二線堤になることから住み続けても津波に対しては大丈夫と考え、自宅を修繕。しかし、令和4年の県の想定では浸水想定範囲になり、悩ましい気持ちを抱えている。
自宅は港から600メートルぐらいの所にある2階建ての戸建てです。1階部分が鴨居まで浸水したので、発災後3週間ぐらいは会社のビルで寝泊まりしました。最初の2日間は少し大変でしたが、3日目からB市の親会社から支援物資が毎日届き、生活はだいぶ楽になりました。4月3日に自宅の電気が復旧したので自宅に戻り、2階で生活を始めました。妻はA市役所の職員でした。市役所の職場で寝泊まりして、水道が復旧した4月末に自宅に戻ってきました。2階での暮らしは震災の翌年の5月半ばまで続きました。
息子と娘は当時2人とも大学生で、県外に出ていて無事でした。
とりあえず、2階で暮らせそうだったので、社協の災害ボランティアセンター立ち上げと同時に片付けボランティアの派遣を頼みました。月末に来てくれて、そのときは私も会社を休んで片付けをしました。
自宅を再建するか、別の場所へ移転するか、非常に迷いました。地震保険に入っていたので保険会社から全壊判定を受け支払いを請求中に行政の空撮でも全壊エリアに指定されたので、そちらの手続きで進め、支払いはスムーズでした。並行して建築士に見てもらったら構造上は改修して住んでも大丈夫だと言われました。ただ、非可住エリアになるとか、家の目の前に高盛土道路ができるとか、いろいろな情報があって、改修していいかどうか分からなかったのです。
とはいえ、待っている間も住み続けるために、トイレは2階にあったのでそれを使いましたが、お風呂は50万円ぐらいの応急修理補助金を使って修理し、6月から入れるようにしました。
秋になって、非可住エリアにならないことと、家の前の道路が高盛りにならないことが分かって、高盛りでないなら圧迫感がないだろうし、むしろ便利になると思い、10月から自宅の改修を始めました。
初めに私の兄弟と一緒に内壁と断熱材を剥がしました。本格的な改修は業者に発注し、まず大工さんに床を剥がしてもらいました。9月末にボランティアに床下の泥出しをしてもらい、自分で噴霧器を借りて床下を消毒しました。
その後、玄関を開けてすぐの所に応急の台所を造ってもらい、本格的な改修が始まりました。うちに来た大工さんはC市Dの方だったのですが、あちこちで人手が足りないので、うちに2日間来ては別の現場に行って作業するという感じで、自宅の改修は翌年の5月までかかりました。
その後、少しひびが入っていた外壁を補修して、塗装も直しました。
改修費は、被災者生活再建支援金と、義援金、地震保険、あとは貯金を切り崩して何とか借金せずに済みました。地震保険の支払いは火災による全壊の場合の半分でしたが、2階は手を付けなくても大丈夫だったので1階だけ工事しました。家財保険も付いていましたが、冷蔵庫や洗濯機など最低限のものとパソコン、プリンターをそろえました。あとは私と妻の水没した車2台を買い替えました。
長男、長女が通っていた大学の援助も大きかったです。息子の大学は授業料を震災後1年目は全額免除、2年目は半分免除にしてくれました。娘はアメリカの州立のカレッジに行っていたのですが、そこも日本での被災を考慮して40万~50万円の奨学金を授与してくれたほか、アルバイトも許可してくれました。
自宅の改修費は1千万円を超えましたが、当時、人手不足で大工さんの賃金が上がっていましたし、資材も高騰して調達しにくい状況でしたから、金額的には仕方がないと思っています。
当時思ったことですが、改修に対する支援の額をもう少し増やしてもいいのではないか、と。被災地には私のように直せる家がもっとたくさんあったと思います。解体するとごみがたくさん出るので、支援の額が増えて改修する人が増えれば、ごみが少なくて済むのではないかと思いました。正解かどうかは分かりませんが。
先程も話したように自宅を改修するか、転居するか大変迷いました。でも最終的には、別の場所に家を購入して、この年でまたローンを組むのは避けようと決断しました。防潮堤を高くし、自宅より海側に高盛土道路できる計画がはっきりしたので、もしまた津波があってもある程度耐えられるだろうという思いもありました。
定年退職したらローンのない状態にしたいとずっと思っていました。近隣の皆さんも同じように考えていたと思います。実際、私の近所では、家を解体してしまったのは2軒だけです。若いうちならまだいいかもしれませんが、この年でローンが振り出しに戻ると思うと精神的にはつらいです。振り出しならまだしも、二重ローンになってしまったら大変です。
ただし、千島海溝沿いでの巨大地震の発生確率が高まっています。私の家はその地震による津波の浸水想定区域なのです。この情報は再建当時ありませんでした。当時この情報があったら、迷わず内陸の安全な場所に移転したと思います。
震災当時は54歳で、地元の新聞社で編集部長をしていました。会社が被災してからは事業部に移り、出版業務をしたり調査事業を請け負ったりして、60歳で定年を迎えました。
女子サッカーチームの運営会社から誘いを受けていたので、定年退職した翌日の4月1日から仕事を始めました。B市にアパートを借り、試合の運営やチケット販売のほか、会社の規程などを整える仕事をしました。同年10月には体制が整ったことと、当初からA市の震災伝承活動に力を入れたいと思っていたこともあり、退職しました。伝承・防災学習は震災後からずっと続けている活動で、B市にいたときも頻繁に地元に戻って夜中まで会議をしていました。
A市に戻り伝承活動をする一方で、収入を得るために個人事業主になり、旅行会社から営業の業務委託を受けていました。それから、記者と編集と出版の経験があったので、その関係の仕事も個人事業主として始めました。仕事をしながら、令和3年(2021年)9月に一般社団法人石巻震災伝承の会を立ち上げて代表になり、多忙になったので、個人事業主の方は令和4年(2022年)末で終わりにしました。
私が町内会の役員になったのはサッカーの運営会社を辞めた翌年です。町内会の資料によると、震災前は町内に1000世帯ぐらいが住んでいたのですが、津波による被害が甚大で多くは別の所に引っ越してしまい、残ったのが350世帯ぐらいでした。町内会組織が消滅してしまい、震災後、地域で復興のまちづくりのために組織立って動くようなことはありませんでした。
震災でたくさんの支援を頂いたので、A市で外部の人に対して語り部の活動を始めたときに、地域としてちゃんと次の災害に備える防災のまちづくりができていることが大事だと思いました。それで町内会執行部に入りました。市の助成で防災士の資格も取れたので、そういったノウハウを持って町内会を運営し、自分の町内会だけでもしっかりと地域づくりをして、全国の皆さんに「私たちの取り組みを参考にしてください」と言えるぐらいにしたいという思いがありました。
ただ、町内会長も防災士の資格を持っていて一生懸命ではあるのですが、組織が大きくなってきて、なかなか思うようにいきません。それでも、町内会の班長を集めて防災の勉強会をしたり、町内会全体に呼び掛けてコロナ禍でも安全に避難者を受け入れるための避難訓練をしたりしています。私は講演で「共助が必要だ」という話をするので、まずは自分たちの地域で共助ができるようにしたいと思っています。
E小学校が津波火災に遭っているので、講演では、ビルや頑丈な建物での垂直避難も100%安全ではないという話もします。ただ、うちの近所は高台がなくて、一番近くてもF山まで歩いて30分はかかります。避難ビルもありますが、それだけでは住民全員は避難し切れないので、そこは今後どうしたらいいのだろうと思っています。
大事なものはなるべく2階に置くようになりました。水や食料、運動靴、懐中電灯も2階に置いています。ちなみに、東日本大震災の前年にチリ地震津波があって、そのとき何となく気になって家の権利書や設計図などを2階に上げていたのです。それがあったので、家を改修するときは比較的楽でした。
どこかに出張や旅行に行ったときに、今ここで災害が起きたらどうするかということも考えるようになりました。特に海の近くに行ったときは、意識的に高い所を探すようにしています。
やっておいてよかったのは、地震保険に入っていたことと、実家のリフォームです。私の実家が内陸の方のC市にあるのですが、私が高校生のときに建てた家でだいぶ古かったので、地震が来たら危ないのではないかと思って耐震診断をしてもらい、震災の前年の12月にリフォームしたのです。その数カ月後に震災があって内陸もかなり揺れましたから、もしリフォームしていなかったらどうなっていたのだろうと思います。
まずは、ちょっとした食料や水などの備蓄が必要です。あと地震保険にも入っておいた方がいいと思います。そして大きな地震が起きたら、津波を想定してまず避難しなければいけません。ここは自助の部分です。その後、共助として、避難した後の助け合いの体制を地域の皆さんでつくっていくことが大事だと思います。
佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)