O・K 氏
当時62歳、年金生活、A市在住。
自宅(持ち家・戸建て)が全壊流出(増築部分は1階天井まで浸水し、昭和初期に建てた部分は100メートル流された)。
当時62歳、年金生活、A市在住。
自宅(持ち家・戸建て)が全壊流出(増築部分は1階天井まで浸水し、昭和初期に建てた部分は100メートル流された)。
福島第一原子力発電所の原子炉が爆発したと思い、放射能から逃れるため家族でB県の親戚宅へ避難するが、水素爆発と知り地元に戻る。みなし仮設、災害公営住宅を経て、地震保険とローンを使って元いた沿岸部に自宅を再建。語り部の活動を通して津波被害と海の魅力を伝えている。
当時の私の家はCの中では海岸から一番遠い場所にあったのですが、震災の二十数年前に増築していて、増築部分は1階の天井まで浸水しました。元々あった部分は昭和初期に建てたこともあって、土台の石の上に柱が乗っかっているだけだったので、100メートルぐらい後方に流されました。完全に二つにちぎれた格好です。私と妻と娘(次女)の3人と、ヨークシャーテリアという小型犬2匹、家族全員で一緒に避難しました。
当日は裏山の神社に一晩泊まって、次の日の朝早くには、そこから10キロぐらい離れた所にある中学校の体育館に避難しました。娘の車だけ無事だったので、それで移動しました。体育館には15日までいたのですが、原発の3回目の爆発事故でいよいよ駄目だと思って、今度はB県D市にいる私の姉の家に行って27日まで過ごしました。その後は、Eにある家内の実家が津波の被害が全然なかったのでそちらに転がり込んで、3カ月ぐらいしたらEのFというところにある古い雇用促進住宅(みなし仮設)に空き部屋が出たので、そこに引っ越しました。
それから3年して、Gに災害公営住宅ができたので、そちらに申し込んで移動しました。そこに住んでいたのは4年ですかね。今はCに家を新築して、そこに住んでいます。
当初から記者会見で水素爆発だと言われていましたが、私は水素爆発なんか嘘で、原子炉の爆発だと思っていたのです。ですから相当危険だと思って3回目の爆発で逃げたのですが、2週間して本当に水素爆発だと分かって、放射能の人体への影響はそれほどではないと判断して戻ってきたのです。
いえ、民間のアパートの借り上げも候補にありました。でも、民間のアパートは数が少なくて、なかなか回ってこなかったのです。A市の窓口がいろいろ候補を出してくれたのですが、Eの近くがいいと思っていたので、Fの雇用促進住宅が空いたときに躊躇なくそこに引っ越しました。
本当はCにも災害公営住宅はあったのです。でも、そこはペットの持ち込みができなかったので、Gのペット棟に移りました。
はい。最初からCに建てるつもりでした。ただ、元いた場所は埋め立てられて、なくなってしまったので、そこから100メートルぐらい東(海側)の方に建てました。
そうです。なぜそんな所に家を建てたのだとよく聞かれます。私は冗談で「サケと一緒で、帰巣本能でここに戻ってきたのだ」と言うのですけれども、本当は、ここに津波が来たということをずっと伝えていくために戻ってきました。そんな所に住んで怖くないか、危険ではないかと言われますが、断言します。逃げればいいのですよ。
自宅を建てたのは、集合住宅の「隣は何をする人ぞ」の生活環境にどうしても慣れなかったというのも一つの理由です。暖かいし、快適だし、何の不便もないのですが、本当に交流がないのです。住人が集まるイベントは年に1、2回ありましたが、付き合いというのはイベントでどうこうできる問題ではないのですよ。震災前は、家の前で畑仕事をしているといろいろな人が通って、畑仕事ができないぐらい世間話をしていたのに、生活が一変してしまいました。だから早く自分の家が欲しかったのです。
大変ですよ。私が家を建てられたのは保険に入っていたからです。火災保険に地震保険を付けていました。再建築価格の半分しか落ちませんでしたが、そのお金があったから家を建てることができました。
はい。ローンの金利に対してしか支援金が出なかったので、変な話ですけれども、わざわざローンを組みました。15年か20年ローンだったと思います。私も年金と語り部の収入がありますが、メインは娘が払っています。
完全に引退していました。震災の1年4カ月前の11月30日に定年退職して、12月1日から知り合いの紹介で国土交通省の自動車検査場で検査補助員のアルバイトをしていましたが、冬の間だけという契約で、次の年の3月末まででしたから、被災したときはアルバイトも何もしていませんでした。
家内も仕事はしていません。次女の仕事にもそんなに影響はなかったと思います。次女はトリマーなのです。B県に避難している間は仕事ができませんでしたが、A市に戻ってからは順調に元の仕事に復帰しましたね。
A市では、被災地のスタディツアーという事業があって、被災地でお客さんに対して現地の惨状を説明する語り部の養成が平成24年(2012年)の末ごろから始まったのです。私は友達に誘われて、思うところもあって、二つ返事で参加しました。というのも、震災でかなりショックを受けて、それはやはり人と話し合った方が楽になるかもしれないと思ったのです。十数年たった今思えばそのとおりになっているので、語り部をやっていてすごく良かったなと思っています。何十人、何百人の前で話す生活をするなんて、当時は夢にも思いませんでしたけれども。
いますね。特に沿岸から離れた所の人たちは、意外とCの津波被害のことはそんなに分かっていないのですよ。浸水した場所だということは知った上で来ていると思いますが、かつてのCの住民ではない方が100世帯ぐらいCにいて、津波被害のマイナスイメージよりも、海の近くに住んでみたいという需要がすごくあるのだと思います。
嘘みたいな話ですが、私は親から小遣いをもらっていたのは小学校5年生のときまでで、それからは全部海で稼ぎました。私にとっては恵みの海なのです。磯に行けば海藻や貝がたくさんあって、魚も釣れます。一年を通して楽しみがいっぱいあるのです。ところが、今の若い人たちは、そういう海の魅力を半分も理解していないのではないかと思います。ですから、新しくCに住まわれた方々には海で遊ぶ楽しさをぜひ知ってもらいたいと思っています。
元の住民の中には「もう海の近くに住むのは嫌だ。海は怖い」という人たちもいるので、私は語り部をしながら、海は怖い存在ではないということを一生懸命伝えているつもりです。
C区会があります。いろいろな役員や仕事があるのですが、人が少ないので新しく来た100世帯の方々の協力も必要で、この1、2年は新しい方々にも役員に入ってもらっているみたいです。
先のことを考えないことです。先のことを考えたら気持ちがめげてしまいます。5年後、10年後のことなんて考えず、とにかく今を生きることだけを考えた方がいい気がします。
佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)