被災者の証言

被災者の証言

S・K 氏

S・K 氏

当時50代、協会けんぽの嘱託保健師、A村在住。
持ち家は被害なし。

当時は夫がB町の県立高校に単身赴任中で、B町とA村を行き来していた。A村が計画的避難区域の指示となったため、避難生活を送っていたが、平成29年(2017年)に避難指示が解除されて以降は自宅に戻り、夫と共に農園を営んでいる。

生活の場を移転

生活の場を移されたのはどのタイミングだったのですか。

私は地震当日の夜はA村にいて、金曜日だったので夫が単身赴任先から帰ってきました。そしていつものように13日の夜は夫の単身赴任先に2人でいたのですが、倒壊家屋が多かったのです。元々私は14日に出勤するつもりだったのですが、これでは仕事にならないと思い、勤務先に連絡をとり自宅待機になりました。

その後、A村の線量が上がっていることが分かり、4月22日からはA村全域が計画的避難区域となりました。われわれは6月4日、義父母と一緒にC市郊外の温泉にいったん避難しました。

夫は3月で定年退職の予定でしたが、7月末まで延長となり、私も夫の赴任先と行ったり来たりの生活が6月まで続きました。

その後はどうされたのですか。

7月2日にC市内の借り上げ仮設住宅に移動し、平成29年(2017年)3月まで住んでいました。

その借り上げ住宅はどうやって見つけたのですか。

夫が農業高校の校長を務めていて、趣味でジャガイモやカボチャの品種改良をしていたのですが、ジャガイモの種芋を栽培するには国の植物検疫を毎年受けなければならず、そのためには畑も必要でした。そこで、種芋だけ避難させようと私が提案し、4月上旬からC市に居る保健師の先輩に畑を探してもらったのです。そして私たち村民もいずれ避難という話が出たので、家も探してもらいました。

たまたま事故3カ月前の平成22年(2010年)12月、先輩と一緒に在宅保健師の研修でD県に行ったときに、「手入れされていない畑があるから誰か使ってくれないか」という話をされたのがきっかけでした。そうした偶然があって、畑付きの家を見つけることができました。そこは空き家になっていたのですが、まだ住める状態ではなく、ようやく住めるようになったのが7月でした。ですから、それまでの1カ月間だけ温泉施設にいたわけです。おかげで義父母は、今までとほぼ同じ生活をC市で送れました。

ニコニコ菅野農園を開く

借り上げ住宅に住まわれている間、ご家族に変化はありましたか。

夫は7月まで定年延長となり、8月からはE農業高校のA校で再任用で働きました。以来、8年ぐらいは県の再任用で勤務していたと思います。

私は、協会けんぽの仕事を平成23年(2011年)12月で終えました。というのも、10月に村の教育委員になったためです。

夫が定年退職したら、夫婦でナツハゼ(ブルーベリーの仲間)という植物の研究をすることを計画していたのですが、避難生活でできなくなりました。ところが、避難先でみつけたナツハゼでジャムを作って全国各地の友達に送ったら、「これを販売すればいい」と言われたのです。そして、内閣府の被災地復興支援型地域社会雇用創造事業に応募してみたら書類審査が通り、平成24年(2012年)から少しずつ加工を始めました。

と同時に、県では医療職が非常に不足していました。県立医大が避難者の健康調査を始めたのですが、それを支援する人がいませんでした。ちょうど私は保健師を辞めていたので、協力の要請があり、平成24年(2012年)10月から県立医大で非常勤で週に2、3回仕事をするようになりました。それで被災者支援の仕事が始まったわけです。今も週に1、2回勤務しています。

その内閣府の事業は震災関連なのですか。

そうです。この事業に採択されて、合同会社ニコニコ菅野農園を平成25年(2013年)2月に設立しました。

避難指示解除で自宅へ

借り上げ仮設から次の場所に移られたきっかけは何なのですか。

居住制限区域の避難指示解除になり、自宅に戻れるようになったからです。自宅のリフォームと私の仕事場を確保するために、納屋を改築する作業を平成27年(2015年)から始めて、翌年8月に完成しました。このとき出来上がった家で避難解除準備のための長期宿泊を始め、実質的には自宅での生活が戻りました。家族全員が済むようになったのは平成29年(2017年)3月からで、今も生活しています。

借り上げ仮設にいたときは、元の自宅に戻ろうという強い気持ちだったのでしょうか。それとも他の選択肢と迷われていたのでしょうか。

私は元々保健師ですから、状況を数字で判断する習慣があります。ですから、A村の現状をデータできちんと確かめたいと思っていました。当時、放射線に関するいろいろな噂が飛び回っていたのですが、数字に上がっていないのが現実だったので、何よりも欲しかったのが線量計でした。ようやく線量計を借りることができ、自宅周辺を測ってみると、役場のモニタリングポストの数値とそれほど変わらず、大騒ぎするほどの線量ではなかったので、いずれ帰れるだろうと判断しました。

でも、6月4日の避難当日、いよいよA村を出ていくというときに、義父の妹がやって来て、今生の別れのように泣くのです。その姿を見たときに、絶対に義父母をA村に連れて帰ってくるという使命のようなものが心の中に湧き立ちました。

作物の線量を測定

C市での生活で特に困ったことはありましたか。

C市では、A村に帰ったらナツハゼの栽培・加工をすぐにやれるようにしておこうと考え、環境の線量は大体分かったから、今度は食べ物の線量を調べたいと思うようになりました。それで翌年春、義父が栽培していた山菜の線量を測ったところ、まだ山の中で除染もしていないのでかなり高いと思ったら、ND(不検出)というデータが出たのです。中には3400ベクレルを検出した山菜もありましたが、放射線の専門の先生に聞くと内部被曝は限りなくゼロに近いということでした。

その後、線量計を借りて、いろいろな地点でさまざまな山菜の線量を測定すると、ほとんどが売ることのできる数字でした。なぜ規制を解除しないのだろうと思いました。いつまでも山に入るな、採るな、食うなであり、データをちゃんと見てほしいというのが私たちの願いでした。ですから、帰ることに対する不安は全くありませんでした。

自宅に戻ってから困っていることはありますか。

あまり変化はないのですが、農業に関して一番困っているのは今の流通基準です。売るときに邪魔になるのです。はっきり言って100ベクレルなどあり得ない話だと思うのですが、NDでなければならないと思っている人が県職員にも実はたくさんいます。私たちが山菜を売り始めて7年になりますが、A村には今も山菜は食べられないと思っている方がいます。あまりにも山に入るな、採るな、食うなと言ったために、A村の山菜は食べられないと思い込んでいるのです。でも、条件を満たせばちゃんと売ることはできます。

A村の帰還率が低い

Sさんの周囲は現在どんな感じですか。

厳しいですね。例えば平成元年(1989年)にヨーロッパ研修に行ったときの仲間が16人いるうち、3分の2はいまだに避難先で生活しているのです。もう帰ってくるつもりもないでしょう。分断という言葉がよくいわれますが、帰ると決めた人には非常に厳しい目を向けられました。これも現実です。

私の見方としては、やはり放射線の問題には反原発のイデオロギーが結びついてしまうのです。反原発と今回の事故による影響は全く別物のはずです。これを一緒くたにして騒いでいる方々が結構います。今のA村は年間2ミリ程度の線量ですが、これでも長期的には健康被害が起こるだろうといって脅す人がいて、それを今も信じる人たちがいるのです。

今後、村としてどういうふうに変わっていってほしいですか。

村の人口が増えないので、移住者を呼ぶしかないだろうと思うのですが、愛郷心のある方たちが真っ先に戻っているのです。その中で私が危惧しているのは、子や孫たちに「帰ってきていいよ」「村のものを食べてもいいよ」と言えない人たちが多いことです。

そこで私が近所で始めたのは、食べることを通して放射線を考える取り組みです。A村ならではの食事を用意して、専門家に線量を測ってもらったら、旬の時期は確かに線量が上がるけれども、旬の時期はせいぜい1~2週間ですから、あとの時期は普通であり、1年間で比べると東京も福島もほとんど変わりがないのです。

こうした話を伝えていくことで、私の近所では、我慢することはない、おいしいものは食べようという雰囲気になっています。これが村全体に広がればいいなと考えています。新しく入ってきた人の中には食べ物に関係した仕事をしている方もいるので、「ナツハゼを使ってみたい」と言われると仕事が成り立つなと思っているのです。

聞き手

佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)

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