K・N 氏
当時45歳で、会社員(養豚場勤務)、A町在住。
戸建ての自宅は全壊流失した。
当時45歳で、会社員(養豚場勤務)、A町在住。
戸建ての自宅は全壊流失した。
津波で父と妻、次女を亡くす。発災後は母、長女とともにB県に避難し、自身は福島との往復生活を送った。その後、C県で7年過ごし、長女の高校進学を機にD市内に移住。民間からの支援なども活用しながら戸建ての中古住宅を購入して暮らす一方、語り部活動にも参加している。
まず3月16日、妻の実家があるB県に向かいました。私は津波で家族3人を亡くし、母と長女が残ったので、その2人と犬を連れて避難しました。長女はB県でその後1年間お世話になり、私は福島とB県を行ったり来たりする生活でした。母はなかなか関西になじめなかったため、4月下旬にEの避難所(ホテル)に移りました。
その後、私と長女は平成24年(2012年)の春からC県に移り、2人で7年間生活していました。C県とは特にご縁はなかったのですが、趣味の山登りを通じて知り合いが結構いました。福島に戻るという選択肢もあったのですが、原発事故があったため、長女を連れて帰るという判断がなかなかできなかったのです。
中古の物件を購入しました。平成23年(2011年)の時点で福島には戻れないと判断し、終の棲家だと思って購入してしまったのです。判断が早かったですかね。資金は持ち出しの部分が大きかったのですが、国から津波で家屋をなくした人向けの生活再建支援金300万円がありましたし、いろいろなところから支援を頂いたので、ローンは組まずに何とか生活できました。
後悔したくなかったということですかね。A町自体がEに機能を全て移して周辺に復興住宅を造り、いわば町が丸ごと移住したような形になったのです。でも、発災半年後ぐらいのEの空間線量が0・2程度あり、今考えれば大したことはないと思うかもしれませんが、震災前の3倍もあったのです。
当時は放射線についてほとんど知識がなかったので、長女をそこで生活させるのは嫌だと思い、頑張れば福島から日帰りできる距離で、できるだけ遠い地域ということでC県にしました。
母は、Eの避難所がホテル業務に戻るために閉鎖されたので、追い出されるような形になり、C県に連れてきました。その後、Eの仮設住宅に11月ごろに入居し、約5年後に現在のD市内の復興住宅に移りました。Eは雪国なので、除雪が大変という理由もありました。
平成31年(2019年)年春に長女が高校を卒業し、上京したタイミングで、D市内に戻りました。長女も現在はD市に戻ってきて、別の場所で生活しています。母は今年体調を崩し、一人だと心配だということで私と一緒に暮らしています。
D市でも築40年ほどの建物を土地代ぐらいの安い値段で購入しました。
C県にいたときは近所の大工の手伝いに行っていましたが、震災以降、それ以外には仕事をしていません。収入は自分が生活できる分があればいいという感じですかね。ただ、娘に対する民間からの支援もあったので、ありがたいことに生活に困ることはありませんでした。
A町にいた頃に勤めていた養豚場(F町)は、全町避難を受けて豚を残したまま職員がみんな避難しました。系列の県外の養豚場に行って働く社員もいましたが、私はまだ行方の分からない家族がいたので、福島の養豚場に通っていました。震災の1年後に退職し、退職金も結構もらえたので助かりました。
みちのく未来基金といって、子どもたちに対して高校以降の進学基金を支援するものがあったので、それを使って専門学校に行かせてもらいました。そうしたものがあるというのは役場に問い合わせて分かったのではなく、NHKの番組に私が出ているのを未来基金の方が気付いてくれて、NHKから話が回ってきました。未来基金は学費だけでなく生活費の支援もあって、250万円ぐらい2年間出ていたと思います。
詳しく探せば支援してくれたところはもっとあったと思うのですが、私はそういうことにあまり積極的ではなかったのです。
大熊未来塾なのですが、やはり語り部で収益を上げていくのはなかなか難しく、私一人が何とか生活できるかどうかぐらいだと思います。
どちらかというと逆ですね。まだなかなか独り立ちできていない状況です。製菓の専門学校を出て、東京で一度職に就いたのですが、コロナで休業になってしまい、しばらくは給料をもらいながらGにいたのですが、もう駄目だということでD市に戻ってきたのです。D市であちこち飲食の仕事をしたのですがなかなか続かなくて、今も働いてはいるのですが、一生続けられる仕事という感じにはまだ固まっていません。
私と一緒で結構のんびりしているので、本人はそこまで大変だと感じていなかったようです。ただ、B県の小学校に転校して、そこはクラスメートも女の子が6人ぐらいしかいなかったのですが、授業参観に行って校庭で遊んでいる様子を見ると、友達の後を追いかけているような感じで少し距離があるような気がして、かわいそうだなとそのときは思いました。でも、おかげさまでいじめられることもなかったようです。
うちは割と珍しくて、そんなにべったりというわけではないけれども、普通に恋愛の話もしていましたし、割と何でも話せる関係だったと思います。休みの日もどちらかというと妻より私と一緒に出かけることが多く、親子関係がぎくしゃくしたということはあまりなかったですね。
最近は語り部ネットワークの交流会などもあり、横のつながりができて本当にありがたいのですが、そもそも福島県が目指している伝承が私たちの伝承していることと全く違っていて、どちらかというと復興のため、経済を回していくための伝承という感じなのです。語り部がそのためのツールとして利用されているような感じがします。
うちの場合は原発事故の影響を大きく受けての避難生活だったので、本当に特殊だと思うのです。だから、そんなに参考になることはないのではないかと思います。もしも原発事故がなければ恐らく普通に仕事を再開していたと思いますし、自宅の近くに家を再建できたと思うのです。
逆に言えば、原発事故がなかったらもっとふさぎ込んでいた可能性はあります。家族を探すという行為もやらなければならないし、原発という怒りの吐き出し口もあるので、大変な目には遭ったけれども、それが救いの一つでもあったと今になっては思います。
それを他の誰かに生かすような話はあまり思いつかないのですが、津波による犠牲に対する周囲の空気も、原発事故の影響で「もっと探して」と言いづらいこともありましたし、町内や近隣で表現しづらいという雰囲気は今も続いています。ですから、参考になるようなことはなかなか出てこないですね。
ただ、いろいろな個人・団体から支援を頂きました。自分の方から探しに行ったことは全然なかったのだけれども、実際にそうした支援はありました。一番大きかったのは、震災直後のあしなが育英会です。娘に対してすぐにお金を出していただきました。国や町の支援よりも断然早くて、ありがたかったですね。
佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)