被災者の証言

被災者の証言

O・A 氏

O・A 氏

当時20歳、学生、A市在住。
自宅(戸建て)が2階まで浸水。

祖母をかばい自宅に残り、津波に遭うも地域の人に助けられ避難。自宅は全壊判定を受ける。住宅ローンが10年残っていたが、地震保険が下りて完済。地元への愛着が強く、自ら住宅ローンを組んで地元の高台にて自宅再建を行う。就職も地元で行い、地域の行事や団体の活動に積極的に参加している。

被災状況と住まいの変遷

被災当時の状況を教えていただけますか。

当時、私は20歳の高専5年生で、48歳の母と79歳の祖母とBで3人暮らしをしていました。海岸線から10メートルの所に家があったので、建物の2階部分まで海水が入って、躯体は残ったのですが罹災証明上は全壊でした。あのとき家には私と祖母だけで、2人で町内にあるホテルのロビーに避難して、震災翌日に母親と親戚が捜索に来て再会しました。

その後はどうされたのですか。

服もない状態だったので、家族と再会した後すぐにCの親戚の家に行きました。6月下旬までそこの一室を借りて過ごした後、民間の借り上げ住宅に移りました。同じ市内にある雇用促進住宅です。親戚の家から近いというのもあって母がそこに決めたようです。平成26年(2014年)の10月中旬までそこに住んで、完成したばかりの地元の災害公営住宅に引っ越しました。

借り上げ住宅に住み続ける選択はしなかったのですね。

平成25年(2013年)ごろから各地に災害公営住宅がつくられるという話は聞いていて、特にA市の場合は、震災前のコミュニティを維持したまま当時住んでいた地域の公営住宅に移れるという制度があったのです。平成25年(2013年)6月ごろに小学校の体育館で行われた説明会に行って、当時住んでいた地域の隣組の人たちと声を合わせて、5世帯ぐらいのコミュニティで申し込んだような記憶があります。

アパート型の災害公営住宅なのですが、入居の選考に当たって、3~5世帯で集まって申し込むと入居しやすくなるということでした。一緒に申し込んだ方々とは部屋は隣り合わせにならなかったですが、同じ棟に集まるような形でした。

災害公営住宅に移ったことは正解でしたか。

間違いなく正解だったと感じています。特に震災直後の学生期間は、地元の復興のためのハード的な作業や集まりになかなか参加できなかったのですが、どうしても地域の一員としてそういうものに関わりたいという思いがあったので、地元に戻って関わりやすくなりました。

災害公営住宅にはいつまでお住まいで、その後はどうされましたか。

平成30年(2018年)の12月下旬まで住んで、その後は土地区画整理事業で地元の高台に自宅を再建して今に至ります。

地元での自宅再建

上物にはかなりお金がかかったのではないかと思いますが、元手はどうされたのですか。

自宅再建に当たってA市から250万円ほどの助成が出たのと、震災前に住んでいた家の地震保険の残金を頭金にしました。前に住んでいた家は築15年で、ローンがあと10年残っていましたが、全壊判定で地震保険が下りたので、それを使ってローンを完済して、その残金が数百万円あったのです。あと足りない分は私が35年ローンを組みました。28歳のときに組んだので63歳まで続くことになります。

地元に戻った理由は何ですか。

私自身、震災直後から地元に戻るという意思がありました。津波で怖い思いはしましたが、よそで暮らしてみて、風景とか香りとか、地元の良さを改めて思い知って、地元を離れたくないという気持ちがありました。

自宅再建で一番大変だったことは何でしょうか。

A市の復興のまちづくりや工事の進捗状況は回覧板等で把握できていたので、基本的に苦労を感じることはなかったです。ただ、土地の引き渡しが本来であれば平成29年(2017年)の秋だったのですが、高台工事の最中に山ののり面の水分量が多いということで工事が9カ月延び、建物の着工に時間がかかって、家を持つのが遅くなったことだけは、唯一予定が狂ったと思いました。

ローンに関しては、月々の収入と支出を考えても負担なく返せる金額だと思っています。設計士にもかなりコストコントロールをしてもらいました。

当時、Bでは、地元の工務店を通して自宅再建をするモデル事業のようなものがあって、東京から有名な設計士が入ったのです。うちもその事業で造った家です。市内の五つぐらいの工務店で協議会がつくられて、そこに均等に施工をお願いするような感じでした。市内の住宅展示場を見て回ろうかとも思ったのですが、せっかく地元を押してくれる人たちがいるならお願いしない手はないと思って、その事業に応募しました。

地元での就職

震災の後、どのように就職活動されたのですか。

雇用促進住宅で暮らしながら高専の専攻科に通っていたときに、市内に事業所がある企業の説明会があって、その中でエントリーしました。翌年に採用試験を受けて一発で内定をもらい、それからずっとA市内の事業所に勤めています。

お母さまも仕事を継続されているのでしょうか。

はい。震災前から変わらずパート勤務をしています。勤務先はCでも内陸部だったので地震津波の影響はなく、震災の年の4月からは操業を再開していたと思います。

地域との関わり

今住んでいる高台のまちの印象はいかがですか。

土地の引き渡し時点では被災者だけだったのですが、既に土地を売り払った人がいたり、市有地の販売もあったりして、今は被災世帯と移住世帯が半々といったところです。高台に限らず平場の方も住宅再建が徐々に進んで、建売住宅も増えて移住世帯が3割ぐらいになっています。元々住んでいた人と移住世帯との交流はだいぶあるので、風通しの悪さは感じません。いろいろな地域行事を区民総出でやることを基本としていて、皆さん結構参加しているというのが理由として大きいと思います。私も時間がある限り参加するようにしています。

地域の復興のための団体にも参加されているのでしょうか。

平成28年(2016年)ごろから、B復興協議会に事務局として参加しています。設立当初は区長がリーダーシップを取って住民の帰還や生活再建に関する提案協議を行政と行う団体でしたが、復興が済んだ今は、地域のまちづくりや行事を通して区民の融和を図る活動をしています。事務局の皆さんが70~80代なので、私はSNSを使った情報発信と、現場の写真撮影などの記録を担当しています。

地元に戻ったときに、区長から地域活動に興味がある若者としてピックアップしてもらって、B、D、Eの3地区の住民を主体とする市民会議のメンバーに加わりました。平成27年(2015年)の夏のことです。これが私の地域活動への初めての関わりですね。地域住民が主体ではあるのですが、市の地域振興課がきちんとサポートしている団体です。

役所の対応

役所の対応について何か思うことはありますか。

災害公営住宅にコミュニティ単位で入居の申し込みができたのは、都市計画を専門にされている関東圏の専門家の助言で区長から市に提案して、それが採用されたからです。そういう意味では、当時の市政は市民の声にかなり柔軟に対応してくれたと感じます。住所が変わっていく中でもきちんと郵送を介して必要なときに必要な情報を提供してくれましたし、個人的には不満はあまり感じていません。

未来の被災者へメッセージ

最後に、読者の方にどのようなメッセージを送りたいですか。

普段から地域の人を大切にして、オープンに接しておくといいと思います。いざというときに一人ではどうにもならないので、お互いさまの気持ちで助け合えたり、少し調子が悪いときに気にかけてくれたりする人がいると心強いです。

私自身、震災当日は自宅で津波に遭って、自分だけなら歩いて逃げられたわけですが、祖母をどうしようかと迷っているときに、窓から遠くを歩いている人が見えたので「助けてくれ」と叫んだのです。そうしたら、時間がたってから、果敢にも津波の合間を縫って一人の男性が助けに来てくれて、とても心強かったです。

ただ、当時は祖母をかばって自宅に残りましたが、たとえ家族を置いてでも一人で逃げる選択も重要だと思います。財産は何とでもなるので、取りあえず自分自身の命だけを守るために積極的に頭を使って体を動かすことが大事だと思います。

あとは、何か使命感を持って生きるよりも、暮らしが楽しくなることだけを考えて生きればいいかなと思います。私も平日、仕事の時間以外は海岸線のサイクリングツアーに参加したり、週末にビーチクリーン活動に参加したりしています。

聞き手

佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)

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