I・M氏
当時67歳、製造業、A市在住。
自宅(持ち家)は緊急時避難準備区域の対象。
当時67歳、製造業、A市在住。
自宅(持ち家)は緊急時避難準備区域の対象。
次男と三男と3人で暮らす自宅は、地震・津波の被害を受けなかったが、福島第一原子力発電所の事故で緊急時避難準備区域の対象に。しかし、仕事で得た放射能の知識を基に避難しない道を選択。職場を失うも、建築士の資格を生かし応急危険度判定のボランティア活動に取り組む。行政区長、野馬追伝承会の会長でもある。
B町にある東北電力浪江・小高原子力発電所の建設用地から車で5分程にある高台に偶然にもいたので、津波から逃れることができました。
その建設用地は、震災後に建設を撤回、B町に無償譲渡され、「福島イノベーションコースト構想」による水素製造工場が建設されました。
自宅は海岸から8キロ以上離れているので、津波の被害はありませんでした。地盤がいい場所なので地震の被害も食器だけです。屋根は金属板なので落ちる瓦もありません。
原発から20キロ圏内が避難指示区域なのですが、私の家は23キロ地点なので屋内退避区域でした。その後、原子力災害対策特別措置法で緊急時避難準備区域になりました。A市の人は皆さん避難して、人口が7万2000人から一気に1万人になりましたが、私は仕事の関係で放射能や原子力発電所の機能に関する知識があったので、線量計を確認して避難しないことを選択しました。
後から分かったのですが、A市はなぜ屋内退避区域や緊急時避難準備区域になったかというと、年間積算量が20ミリシーベルトあったのです。原因は放射性ヨウ素でした。ただ、放射性ヨウ素は半減期が8日間なので、緊急時避難準備区域はすぐに解除されました。そこからA市の復興が始まるわけです。
決まりました。Cに親戚がいるので、そこに行こうかとも思いましたが、行くにはスクリーニングを受けなければいけません。ただ、それがすごく時間がかかるのです。受けられるまで外で車中泊する人もいました。それもあって避難しない道を選びましたが、そのとき20~30キロ圏内もいつ警戒区域になるか分からない状態だったので、いつでも避難できるようにスクリーニングは受けました。
D町のE地区にある工場で管理部長をしていました。道路を隔てて福島第一原子力発電所があるのです。事故を起こした1~4号機はF町にありますが、D町にあるのは事故を起こさなかった5~6号機です。
もし原発事故がなければ、次の日、原子力発電所の中に入って管理業務をすることになっていました。たびたび入って仕事をするので、核が人体に及ぼす影響や防護の仕方、避難の仕方などについては何回も研修を受けていました。ですから、一般の人よりは放射能に関する知識を持っていました。
職場は警戒区域ですから、取りあえず休職となり、事業が継続できずそのまま退職となりました。
実は私は建築士の資格を持っていて、福島県建築士会G支部の事務局長だったのです。県から、H県に近いJ町の応急危険度判定業務(ボランティア)に建築士会からも誰か参加してほしいと言われたのですが、会員は皆さん避難していましたし、車のガソリンもありませんでした。なので「車に乗せてくれるなら行くよ」と言って、県の車に乗って、地震があった月の28日から8日間、J町に応急危険度判定業務に行きました。
K地区が警戒区域を解除して避難指示解除準備区域になったときに、A市は原発の20キロ圏内の罹災調査を開始しました。このときも建築士会で調査を引き受けることにして、私がリーダーで、12人のメンバーで始めました。1年半で3000棟の調査をしました。
2021年(令和3年)とその翌年の福島県沖地震のときも、依頼を受けてJ町・G市・A市の罹災調査を行いました。
震災の1年半ぐらい後に福島県が除染講習会を開いたので、いの一番に参加しました。私はここで放射能と暮らすわけですから、放射能はどういうものか、人体に対してどういう影響があるのかということを学びました。出ている核種が放射性ヨウ素とセシウム2種類、半減期が2年のものと30年のものがあるということで、実際に器具を使ってその測り方についても学んで、実地を含めて2日間でマスターしました。
震災当時の行政区長が、民生委員も兼ねていたのでギブアップ状態となり、私のところに区長をやってくれないかと日参されたので、引き受けざるを得なくて引き受けました。人口がまるっきり減って、本当に一番ひどいときでした。
今のA市の人口は5万7000人です。アンケートを採ったら、A市に戻りたいという人が3500人いました。多くは高齢者です。ただ、病院が満足に機能していないから戻れないというのです。確かにそうで、A市の市立病院はベッド数はあるのですが、お医者さんと看護師さんの人手不足でベッド数を満足に使えていません。特別養護老人ホームも介護士さんが戻ってきていなくて、ベッドを全部使えていない状態です。避難した方々はそういう情報をちゃんと知っていて、「戻りたくても戻れない」と言っています。
高齢者以外に「戻れない」と言ったのは、震災のときに30代前半とか20代後半で、小さなお子さんを持っていた人です。放射能の害がものすごく不安で、より遠くに避難したのです。避難先で子どもが進学して、自分も家族を養うためにそこの企業で就職して、それが長引いてもう12年ですから、避難先に住宅も構えてもう戻れないという人たちです。
人口減少というのは、普段は右下がりの自然減少なわけですが、A市はがくんと減りました。今の時点で、65歳以下の人が1人で高齢者3人を支えるような状態です。高齢化率は30%以上で、40%に近づいています。
放射能の講座などで得た知識は区長になってから非常に役立ちました。例えば「戻りたいけど水の汚染が怖い」と言う人に、「A市の水は地下水をくみ上げています。地下水は放射能の影響がないので飲んだり洗濯に使っても大丈夫ですよ」と教えてあげられます。
地元の相馬野馬追を存続させるために、2015年(平成27年)ごろに立ち上げました。震災当時はやはり中止しようという意見もありましたが、鎮魂のための野馬追を、警戒区域を除いてA市の北郷とG市のLで行いました。
以前は500騎出ていましたが、かなり減ってしまいました。野馬追というのは騎馬会と市役所の行事で、これまで市民が立ち入る隙がありませんでした。ただ、出場騎馬は市民の税金から出場手当が出ます。そのこともあって、存続させるためには市民を巻き込んでいく必要があると考えています。世界遺産登録を目指すという話が始まったときも、市民から離れていては世界遺産なんて登録できないと言いました。ですから、私たちは野馬追や相馬中村藩の歴史を勉強して、歴史的な裏付けに基づいて市民に理解してもらい、野馬追を支持・支援してもらう取り組みを始めました。
今は、例えばA市ならM区と協定を結んで、災害時の避難先として受け入れてもらえることが決まっています。バスで集団で行こうが、マイカーで行こうが、引き受けてくれます。避難先が決まっているということはすごく安心なのです。当時はそれがなかったので、借り上げ住宅がなかなか決まらなかったりして住む場所に困る人がたくさんいました。
また、12年前は避難所に非常時の備蓄品がありませんでした。今はあるので、手ぶらで行っても避難できます。
あと、12年前に首都圏では、交通機関が壊滅状態に陥り、帰宅難民が多数発生し、大問題となりました。それを防ぐために、会社が社員が宿泊できるように備蓄をしています。その会社は地元と協定を結んでいるので、地元の人も避難できます。ですから、私は首都圏の人に対しては、「地震の場合、地下は震度係数が低いから安全です。しかし23区は半分津波で水没するので、まず急いで地下から出て、周りを見て、被害が少なそうな大きな建物に避難しなさい」と言っています。12年前とは避難の方法がまるっきり変わってきていると思います。
佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)