T・Y 氏
当時40代、A市在住。
自宅(戸建て)は全壊・流失。
当時40代、A市在住。
自宅(戸建て)は全壊・流失。
長男を津波で亡くす。発災1カ月後に避難所からB市のアパートに移ったが、日常生活と自身との温度差に耐えかね、A市内の仮設住宅に入居。その後、土地区画整理事業で現地再建した自宅で暮らしている。
閖上公民館の2階に一晩いました。あの日は長女の中学校の卒業式で、私と娘は謝恩会に同席し、長男は卒業式が終わった後、友達の家に遊びに行っていたので、3人とも取りあえず同じ公民館のグラウンドに避難していたのです。主人は勤め先のB市内にいました。
すると地震から1時間後、「津波だ」という声が聞こえ、私と娘は公民館の2階にたまたま逃げ込めたのですが、長男は逃げ遅れ、自宅近くに住む主人の両親もともに行方が分からなくなりました。義母は1週間後、義父は1カ月後に発見され、長男も中学校に向かって逃げているのを目撃されたのが最後でした。
主人とは翌日に合流し、C中学校には3人で1カ月間一緒にいました。
当初は3人を見つけない限り移動できないと思っていたので、捜索を優先しました。しかし、義父が1カ月後に見つかり、長女は高校進学が決まっていたので、年頃の娘に体育館はなかなか厳しいということで、一刻も早く出るべきと考えました。私の実家がB市内なので、父からも「とにかく早く出てこい」と言われていたのですが、当時は遺体安置所から離れてしまうと行方不明者を探すのは難しかったので、3人を見つけてから次のことを考えることにしていました。
3人が見つかった後は、主人の親戚がB市内にアパートを所有していたので、そこに転居し、1カ月だけお世話になりました。本当はそのままそこでお世話になっていてもよかったのですが、1カ月を過ぎるとB市内では大きな被害が見えなくなり、生活が日常になっていたため、これからどうすればいいか分からないわが身の状況と温度差を感じるようになりました。
B市にいるとA市の情報が全く入らなくなりますし、親戚に気を使ってもらうことが私にとってはプレッシャーになってしまって、とにかくここから逃げなくてはと思っていました。すると6月にA市から仮設住宅の用意ができたという連絡を頂いたので、逃げるように仮設住宅でお世話になることにしました。
当時は亡くなった長男の同級生の姿を見るのが本当につらかったし、近所の人からも腫れ物に触るような扱いをされるのはすごく嫌だったので、「できれば近所の人がいない所がいい」と言ったら、閖上ではない地域の方々が多く入るDの仮設住宅を紹介していただきました。
Dの仮設には1年間だけお世話になりました。その後、Eの仮設に6年間いました。震災直後は物が何もないので、4畳半2間でも主人と私と娘とで暮らせたのです。ただ、主人はバス運転手で朝早いシフトの仕事をしていますし、娘は夜中でも受験勉強をしたいので、だんだん時間がずれてくると生活が回らなくなりました。
震災から1年を過ぎると、早い人は仮設住宅を出て自力再建を始めていました。すると、隣の部屋に住む方が「私たちは家を建てて出ていくから、もう1軒借りられるように市役所に相談してあげる」と言ってくださったのです。市役所に行くと、「あなただけ特別扱いはできないから、D以外の仮設なら2部屋借りられる」と言っていただき、Eに引っ越しました。ですから合計7年間、仮設のお世話になりました。
現地再建組といって、私たちは自宅の土地を残すことができたグループなのです。主人は、両親を亡くしてしまいましたが、実家の土地は残ったので、実家の土地と私たちが住んでいた土地の2軒分を合体・換地した形で現在の場所をもらいました。
そうです。閖上に戻りたくない人の方が圧倒的に多かったので、なぜ戻るのかという意見は多かったのですが、私はここに戻りたいという思いがずっと心の中にありました。
私は震災直後から閖上中学校の遺族会を立ち上げたり、子どもたちの慰霊碑を勝手に作ったりしていたので、周りの人たちからは色物に見られていたのだと思いますし、息子との思い出の土地は残したいとずっと思っていたので、あまり交ざらずにいました。
中古の家ではありましたが、前の家の住宅ローンも残っていたので、下手に土地を手放すと、ローンだけが残ってしまいます。せめて土地だけでも残っていれば、万が一どうなっても最終的にその土地で何とかなるだろうと考えました。
主人は生まれ育ったふるさとの状況に私以上に悲しんでいましたが、新しく土地を買って家を建てるのは年齢的にも経済的にも厳しいから、戻るしかないだろうと考えていました。ただ、もし余裕があるならもっと内陸に行きたかったと思うのですが、希望する所がなかなか見つけられなかったので、最終的に現地再建は正しい判断だったと思っています。
仮設にいた7年間で何とか元のローンは全て払い終わり、国の融資を上限までお借りしました。土地は私たちの持ち物なので、上物だけ建てればいいわけです。建物が古かったので地震保険には入っていなかったのですが、家財保険が少しだけ出たので、それを頭金にしました。
一緒にいます。ただ、娘だと出ていかれてしまう可能性があるので、親子ローンを組めませんでした。それでも災害公営住宅の家賃よりも今の住宅ローンの方が安いです。災害公営住宅は現役世代には非常に厳しい縛りがあって、3人の収入となると2LDKや3DKで家賃が12万~13万円かかるのです。ですから、当時としては現地再建が最善策だったと思います。私は亡くなった息子の部屋を作りたいという思いがあったので、災害公営住宅では息子の部屋を作ってあげるのは難しく、無理をしても自宅を再建するのが最善策だと思いました。
私は比較的情報が届く所にいました。仮設住宅では掲示板にいろいろ貼られていましたし、市会議員も率先して説明会に足を運んでくださっていました。自分でもホームページを見られる環境にいたので、情報を仕入れることができました。ただ、人に会うのがつらいために表に出ないことで、情報に乗り遅れている人もたくさんいたと思います。
周りでサポートしてくださる方々に恵まれました。A市の職員やNPOの職員の方々が積極的にいろいろな情報を持ってきてくれたり、声かけをしてくださったりしたので、変な人に引っかからずに済みました。多分、これからもそうした周りのサポートに支えられて生きていくのだろうと思います。
それから、男性が1人で残ったら、情報を仕入れるのは難しかったかもしれません。仕事に出かけると日中は家にいないし、夜に帰ってきて仮設に1人でいても、声をかけてくれる人は誰もいません。本当なら閖上に戻りたかったのに、タイミングを逃したがために戻れなくなってしまった人はたくさんいます。
震災直後、生きている私たちは復興支援をたくさん頂戴しました。でも、当時は息子を助けてやれなかった罪悪感でずっと押しつぶされそうでした。「子どものことは早く忘れろ」とみんなに言われましたが、忘れろと言われれば言われるほど、「わが子は閖上に生きていたのだ、忘れないでいてほしい」と考えるようになりました。
それが私の原点でもあるし、私の息子をはじめたくさんの命と笑顔があったことをこれからも忘れてはいけないということを言葉で伝えたいと思うようになりました。それが「閖上の記憶」の活動にもつながっています。
支えてくれる人に恵まれました。自宅の流出届を出したときに担当してくださったのが実は神戸市の職員さんで、「もし行く所が決まらないなら仮設に入った方がいい。情報が途切れないように聞いておいた方が絶対にいい」というアドバイスを最初に下さいました。誰かがそばにいてくれて、泣いたり笑ったりして一緒に寄り添ってくれる人に恵まれました。
佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)