S・S 氏
当時50代、パート、A市在住。
持ち家を流失。
当時50代、パート、A市在住。
持ち家を流失。
中学校の体育館で避難所生活の後、夫の仕事が忙しくなり、みなし仮設へ。その住宅が解体されることになり1年後に退去。移転先の借家もみなし仮設として認めてもらう。その後、集団移転で自宅再建。移転先で避難訓練を呼びかけつつ、地元の祭りを守り続けている。
家がBという海沿いの海抜0メートルの所にあったので、全部流されて、旧C町のD川中学校の体育館に避難しました。2カ月ほどでそこを出て、E市Fのみなし仮設に移りましたが、1年で「解体して新しい家を建てるから出てください」と言われて、同じ市内の別の一軒家を借りました。みなし仮設からみなし仮設への住み替えは前例がなく、A市やE市役所ともめて、らちが明かないので県庁に直談判して1カ月後、みなし仮設として認めてもらいました。8年間住んで、その間、自宅再建するための土地をたくさん探しました。Fは航空自衛隊の基地があり復興が早いので、Fに戻りたかったのですが、役場に行ったら「地元の人優先です」と言われたので断念して、集団移転に応募し、8年後G団地で自宅再建しました。
夫が大工で、家を建てるだけではなくて、壊れたところがあったら直してあげるので、お客さんとずっとお付き合いがあるのです。それで最初のみなし仮設は、夫がHで家を建てたときのお客さんが空き家を探してくれて借りることができました。
次のみなし仮設は、地元の知り合いが農協で不動産の仕事をしていて、その方が紹介してくれました。
体育館には300人いて、半分はIの方々、半分はJの方々でした。J側は子どもたちがいてにぎやかでしたが、I側は子どもたちが亡くなっているのでしーんとしていました。
体育館は寒いので、床に敷くための段ボールは取り合いでした。男性陣は毎日、朝から捜索活動に行くので、女性陣は早く起きておにぎりを新聞紙に包んで、夫を送り出していました。トイレの水も女性陣と高齢者で学校のプールから何十個もバケツリレーして置いておくのですが、すぐなくなるので、夜にも起きて運んでいました。
体育館が借りられるかどうかは校長先生の判断次第なのだそうです。貸すと判断してくれた校長先生や、毎朝お湯を沸かして顔を拭くための布巾を持ってきてくれた中学校の先生方のためにも、体育館を大事に使わなければいけないと言って、女性陣と高齢者で班をつくって、当番制で毎日掃除しました。
自衛隊が入る前から行っていました。I小学校の前は道路がなくなっていたので、干潮時に鉄板を敷いて車で渡っていくのです。満潮になる前に帰ってこないと海になって孤立してしまいます。潮時を見て行くので、毎日行く時間が違っていました。
夫の仕事が忙しくなって、住まいを持つ必要が出てきたからです。仕事道具は全部流されましたが、職人さんたちが道具を貸してくれて仕事はできたので、避難所を出て家を探すことにしました。
集団移転先が決まったとき、商売をする建物を建ててはいけないと言われたので、自転車で行ける距離に土地をさがして工場を建てました。工場を建てる前、みなし仮設にいたころは、以前家を建てたお客さんで農家の方がいて、農家の倉庫を貸してもらい、仕事ができるように改築した形です。
夫は60歳になったら大工を辞めて好きなことをしたいと言っていました。お酒はあまり強くないのですが、みんなで飲むのが好きなので、居酒屋のようなことをしたいとずっと言っていたのです。それが、あと3カ月で60歳というところで震災で駄目になってしまって、今は老体に鞭を打って仕事をしています。
長男は当時、K原発の警備員で、大変な思いをしたみたいです。今は転勤でL県の方にいます。
次男は当時大学3年生で、自転車で4時間かけて私たちのいる体育館に来て捜索活動を手伝いました。捜索したいたる所にあるご遺体はみんな知り合いの方ですから、体育館に帰ってくると毎回吐いて熱を出すのです。私はもう行くなと言ったのですが、うちは三男が亡くなっているので、「お父さんの泣いた姿を初めて見た。だから手伝いたい。やめたら一生後悔する」と言っていました。それで就職活動が少し遅れたのですが、大きな建設会社に面接に行ったら「今さら来たのか」と言われたそうです。捜索活動のために遅れたと説明しても「そんなことは理由にならない」と言われて、「もう二度と大きなところには行かない」と言って今は夫の手伝いをしています。
中学校のすぐ近くの高校の体育館が遺体安置所になっていて、三男の遺体はそこにありました。私は毎日探しに行ったのですが、当初女性、子どもは泣き叫んでしまうので、警察の方から「遺体を確認するのは男性だけです」と言われました。でも、どんどん遺体が運ばれてきて、そうも言っていられなくなってからは「とにかく入って確認して、知り合いの方に知らせてください」と言われました。
津波から1週間以上してから息子が遺体で体育館に来て、検視が始まりました。検視は全国の大学の先生方に応援を頂いて行います。「担当した大学に連絡して検視料を払ってください」と言われました。最終的には払わなくてよくなったのですが、早めに見つかった方々は検視料を払ったとききました。検視が終わるとビニールに包まれてチャックを閉められ、番号が付けられます。私は毎日息子に会いに行きましたが、なぜか毎日番号がずれるのです。体育館がいっぱいになると身元の分かる遺体は別の体育館に移動されるので、息子は体育館を3回移動しました。息子の同級生たちが線香をあげに来てくれて、写真や手紙を置いてくれたのはありがたかったです。土葬だと言われましたが、私は拒否しました。土葬だと、自衛隊が埋葬した後に私達に連絡が来るので、もし番号がずれていたら息子ではない可能性もあるからです。火葬まで1カ月かかりました。ドライアイスはありませんから真っ黒くなって、目・耳・口・鼻は泡が溢れていましたが、それでも火葬できて良かったです。
はい。震災の少し前から令和元年(2019年)8月まで12年間、ショッピングモール(M)でレジ打ちの仕事をしました。「気持ちの整理がつくまで休んで構いません」と言ってもらえたので、二ヶ月休ませてもらいました。復帰したら、お客さんが覚えてくれていて、「生きてたんだな。心配してた」と言われて、レジをしながら涙が止まりませんでした。
当時のMの店長は、地震の後、店を全部閉めようとしたのですが、駐車場が広いので警察の方が皆さんをそこに案内していて、閉められなくなったそうです。店長指示で皆さんを建物の中に入れて、売り物の寝具をあげることにして、従業員がその対応をしました。その様子が防犯カメラに残っていて、全国のMグループで教育材料として使われたそうです。その従業員の方々も被災していました。
はい。地元は祭りが盛んなのです。だから、震災の4カ月後には山の上の神社で祭りをしました。神社は山にあり被災せず、神輿や太鼓・笛・ハッピは残りました。私はFに移っていたので、スーパーで鍋を買い、赤飯と煮しめを作って持って行きました。「まさか震災の年にこれを食べられるとは」と言って、皆さん泣きながら食べていましたね。山の上で着の身着のままの姿で太鼓をたたきました。今年も山の上で太鼓をたたきました。秋の神楽も続けています。
集団移転先での活動について相談できる窓口が欲しいです。今まで避難訓練をしていなくて、昨年、夫が呼びかけて初めて避難訓練をしました。ただ、防災グッズを配ったりして工夫するのですが、なかなか人が集まらないのです。何かをした後に「実はこういう制度がありました」と言われることも多いです。資金面のことも含めて、もう少し早く制度を教えてくれたら活用できますし、こちらから相談できるところもあるとありがたいです。
「人ごとだと思わないでください」と言いたいです。阪神・淡路大震災のとき、人ごとのようにテレビを見ていた自分を恥じています。宮城県沖地震が90%以上の確率で起こると言われていたにもかかわらず、何の対策もしていませんでした。目の前が海なのに、避難訓練も何もしていませんでした。I小学校もそうです。I小学校は私の母校ですが、私が小学生のときも防災訓練はしていませんでした。備えが少しでもあれば、動きは全然違うと思います。時に今は線状降水帯が全国どこでも発達し、おきています。地震、津波だけじゃないんです。人ごとと思わず自分の命は自分で守って下さい。
佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)