K・K 氏
当時60代、A市在住で、新聞社役員、A高校教育振興会専務理事を務める。
持ち家は1階部分まで浸水した。
当時60代、A市在住で、新聞社役員、A高校教育振興会専務理事を務める。
持ち家は1階部分まで浸水した。
当時は妻と妹2人との4人暮らし。自宅は2階が無事だったので、1階のみ修繕して震災の年の7月ごろから住み始めた。現在は妻と2人暮らし。妹2人は別の場所に家を建てて暮らしている。
2メートルほどの津波が来て、1階は全部浸水しました。近くに大きな冷凍工場があって数千トンの魚が流れ出し、私の家にも飛び込んできました。
震災当時、私はA高校教育振興会の専務理事をしていたので、A高校の3階にいました。揺れてすぐに新聞社に戻ったら、輪転機など器機は動いていて使い物になりません。電源も水道も止まっていたので、すぐに自宅を見に行きました。
私が着いたときは津波がまだ到達していなくて、私は妹の車の中に妹1人を残し、高台に津波を見に行きました。すると、ドーンとすごい音がしたので、ぱっと振り返ると、私の家が津波に襲われていて、周辺の家が私の家に重なっていました。そして2000トン以上の魚が辺り一帯にばらまかれ、家じゅうが魚だらけになりました。
その晩は号外を発行するために会社に泊まりました。ハイブリッド車を持ってきて電源を確保し、パソコンで原稿を打って新聞を発行し、コピーを市内の各避難所に配りました。翌日からはBにある妻の姉宅に1カ月ほどお世話になりました。
その間、魚は腐るし、大量のハエも出るしで大変でした。それでも親戚や地域の人たちが来て一生懸命復旧活動をしてくれたので良かったのですが、臭いとハエは何ともなりませんでした。
そこで、行政に相談したのですが、たらい回しに遭い、どうしようもない状態だったので、知人の会社経営者に相談したら、EM菌をまいてくれることになりました。ボランティアで茨城からマイクロバスで駆けつけてくれた大学生約20人に協力していただき、10ヘクタールに10トンのEM菌を散布機でまいたところ、水がきれいになっていき、臭いもだいぶ収まったと感じました。ハエだけはどうにもなりませんでした。
そうして皆さんの協力で徐々に片付いて、車も通れるようになり、自宅の2階は無事だったので、1カ月後に2階に移って生活し始めました。ところが、電気は通ったのですが、水道は来ていなかったのです。給水車はすぐそこまで来ていたのですが、わが家は田んぼの中の一軒家で遠いので、湯布院の自衛隊の部隊がわが家まで飲料水を毎日運んでくれました。
本当は壊して新しい家を建てようと思ったのですが、津波が来た所は危険区域になっているため建築許可が下りないのです。徐々に瓦礫も片付いた頃、以前から親しくしていた近くのC工業さんがわが家を見て、「動いていないから直したらいいのではないか」と言ったのです。そこで1階は柱だけ残し、敷地内の土も全部取り出して、3カ月ぐらいかけて工事しました。
知り合いがユンボなどを持ってきて、倒れたフェンスを全部撤去したり、土手もきれいにしたりしてくれたのです。それから、当時は被災地全域で大工が足りなかったのですが、優先的に来ていただきました。この辺りでは私の家が最も早く再建できたと思います。
すると、市役所の人が見に来て、「この工事は復興事業で公的な資金が出るから、まだ業者にはお金を払わないでくださいね」と言われたのです。それでだいぶ助かりました。それでも、公費は庭の周りの部分だけで、住宅の方は自分で出しました。解体と修繕を合わせて約1600万円でした。
そうです。家全体が直ったのは平成23年(2011年)の夏頃ですね。その頃になるとハエはいなくなっていました。
平成5年(1993年)に建てたので、18年たっていたでしょうか。2坪ほどの鉄骨の犬小屋の上に屋根が乗っていて津波をブロックしたので、わが家は崩れずに持ったのではないかと思います。
2000万円の保険に入っていましたが、地震ではなく津波による被害なので半分になり、全壊ではなく大規模半壊の判定だったのでまたさらに半分になりました。それでも皆さんから随分と義援金を頂きました。
私が取締役になる段階で退職金が出たので、その一部を充てました。新たにローンを組んだりはしていません。
変わりません。妹たちは別の場所に家を建てたので、現在は2人暮らしです。
何しろここで生まれ育って70年暮らしてきたので、そういう考えはありませんでした。父親が傷痍軍人で恩給が高く、父は早くに亡くなってしまったのですが、母には半分が支給されるので、生活は厳しかったけれどもなんとかなりました。
業者に頼むときには必ず見積書や契約書を交わしておくべきです。口頭で「80万円でやるから」と言われていたものが300万円かかりましたので。私はどちらかというと信用する方なので、「それで頼む」と言ってしまうと後で大変なことになります。建った後に市役所から固定資産税の評価に来たら、評価額が高くなってしまいました。
普段は信頼できるのですが、そのときに限っては「はいはい、分かったから」と言ってしまったのです。
やはり頼れるところには頼った方がいいと思います。1人で悩まずに、「誰かやってくれないか」とお願いすれば、地域の人たちは割と親切なので、すぐに来てくれるのです。今回の震災でも親戚の人が5~6人すぐに来てくれて、家の中の泥を鍬で一生懸命よけてくれましたし、瓦礫が膨大な量なので社協に相談したらすぐに茨城からボランティアを派遣してくれました。ですから、素直に「困っている」と言って、みんなに相談した方がいいと思います。
私の場合、特に生活は変わっていません。マイペースな生活です。
大半は別の場所に移りました。立ち退かれた人の土地は市が買収しましたが、浸水した所はいまだに危険区域で家が建てられないのです。でも、防波堤が完成して、私の土地は除外されました。周りは災害危険区域ですが、私の家だけ災害危険区域ではないことになっています。
被災した集落の人たちは、高台など別の地域に移って、災害公営住宅に入ったり、自分で家を建てて住んだりしています。この地域は半農半漁の地域なので、住民の皆さんは山手に結構土地を持っており、高台に自宅再建をした人もかなりいます。
元々私の家は一軒家で、隣の家と200メートルぐらい離れているのです。ですから、周りの人が移転してしまっても、それほど違和感はありませんでした。
補助金をもらうために書類を市役所に提出しようとしたら、長い列ができていて半日ぐらいかかりました。それに慣らされて、最近は非常に気が長くなり、待つことが苦にならなくなったように思います。
一番助けに来てくれたのは親戚でした。それから近所の人ですね。遠い親戚より近くの他人と言いますけれども、地域の人たちはみんな優しくて、困っている人がいたら助けてくれるのです。そういう地域柄なので、周囲の人たちに助けられました。
佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)