被災者の証言

被災者の証言

K・K 氏

K・K 氏

当時40歳、自営業、A市在住。
店舗兼自宅が流失。

ローンの返済中だったこともあり、住まいの再建より仕事の再建を優先した。仕事の拠点も道具も全て失ったが、知人の助けを借りてそろえ直し、震災後10日目から仕事の依頼を受けた。

住まいの変遷

被災してから現在の住まいに移るまでの変遷を教えていただけますか。

自宅兼店舗が流出して、基礎だけが残りました。震災翌日に何とか妻を見つけて、一緒にA高校に一晩泊まりました。その後は、歩いてBを抜けて、腰まで水に漬かりながらCの方に行きました。私は水道の仕事をしていて、震災の2日後の日曜日に、D町にあるキッチンメーカーのショールームで展示会を行う予定だったのです。それで「すみません。ちょっと遅れました」と冗談を言いながらショールームに入ったら、社員やお客さんの1次避難所のようになっていて、そこに3週間ほどお邪魔することになりました。

そのショールームがある地域は、E病院や水道企業団があるので、電気と水は1週間ぐらいで復旧しました。ですから、私は歩いて工場のリース会社に行って軽トラと水のタンクを借りて、連絡が取れた知人の家に水を配っていました。

3週間ほどして、ショールームを復旧したいから出ていってほしいという雰囲気が出てきたので、知人の家を何軒か回りました。その中で、F町にある空き地を借りられることになったのです。ちょうどリース会社に震災前から販売していた中古の6畳のスーパーハウスがあったので、それを購入して空き地に運んで、私はそこで生活することにしました。妻は、Gにある実家の1階が浸水して、2階で家族が生活していることが分かったので、そちらを手伝うためにGに行きました。

8月に仮設住宅に入ることができて、そこで3年半過ごした後、H町で売れ残って安くなっていた建売住宅を購入し、今までそこで暮らしています。

仮設住宅に入居する際に苦労したことはありますか。

私はどちらかというと役所の言うことに素直に「はい、はい」と言っていた方なので、仮設住宅も「どこでもいいです」と言っていました。そうしたら、あるとき第3候補者として「今返事をしてもらえれば入れます」と言われて、入居が決まりました。希望が強い人は全然決まらなくて、結局、山の上の仮設住宅に入った人もいました。

住宅購入の際、生活再建支援金などは利用しましたか。

生活再建支援金や義援金、3年間の元金据置など、使えるものは全部使いました。元いた場所が非可住エリアになったので、住居兼店舗だった場所は買い取られましたが、そのお金は住宅購入には使えていません。震災の1年2カ月前に中古物件を全面リフォームした住居兼店舗に引っ越したばかりで、ローンだけが残ったので、その返済に充てました。

仕事の再建

店舗を再建したのはいつですか。

住宅再建より前です。生活のためには住む所よりも仕事が優先だと思ったので、結構頑張りました。震災の1年半後に地元の先輩が空いている土地を貸してくれたので、そこにユニットハウスというのでしょうか、工事用のスーパーハウスを少し立派にした感じのものを10連棟にして入れました。安さと早さでそれに決めて、一夜にして形ができました。

店舗の再建にはグループ補助金を活用しました。実は先に店舗を建ててしまったので、最初に応募したときは落ちたのですが、6期だけはなぜか近々に建てた建物ならOKになったので、建物の分はそれで賄いました。

震災直後から仕事の依頼があったのですか。

当時、ものすごい寒波で給湯器がみんな破裂したのです。それで震災後10日目ぐらいから、それを復旧してほしいという依頼が携帯に入るようになりました。1年ぐらいは結構需要がありましたが、東京や山形からたくさん業者が来るようになってからは、震災前と同じぐらいの需要に戻りました。

仕事道具はどうしたのですか。

全部流されたので、最初はお客さんから道具を借りて応急処置などをしていました。問屋と連絡が取れるようになってからは地道に買いました。あと、知り合いの業者やメーカーが中古の道具を譲ってくれて、とても助かりました。バックホーやトラック、スコップ、ドリルなどは、中古で安いものを探して買うしかなく、見つかるまではリースしました。

苦労して道具や資材を増やして独立したので、それが一気になくなったときはもう駄目だと思いましたが、お客さんから依頼が来たので、いったん辞めてもらっていた従業員をすぐ呼び戻して仕事を再開しました。

住宅再建・店舗再建で苦労したこと

再建の中で記憶に残っていることはありますか。

行政とのやりとりでいうと、窓口で役所の人がひどい目に遭っているのはよく見ました。最初の頃は地元の市役所の人が窓口に出ていたのですが、その中に私の知り合いで奥さんを亡くした人がいたのです。その人に対して「俺は家族を亡くしているんだ」と言っている人がいて、これはまずいなと思いました。言っている人も生きるために必死ですから、そういう誰も救われない状況は見ていてすごく苦しかったです。

ご自身が苦労したことはありますか。

補助金等の申請書は、今書けと言われたら書けるか分かりません。基本的には自分で書きましたが、税理士に多少相談して、商工会議所にも添削してもらいました。

銀行に根抵当を取られたのは腹が立ちましたが、それは震災のときだけの話ではなく、そこの企業風土なので仕方がないかなと思います。それに銀行は、店舗や住居を再建しようと思ったときに、いろいろな支援制度の存在を教えてくれましたし、通帳の再発行のときもすごく必死になって頑張ってくれました。行政の方もそうですが、公的な立場にいる方々は、いざ震災が起こると本当に市民のために必死になってくれるのだと感じて、とても感謝しています。

私自身、行政も含めて人に多くを求めないようにと思って生きてきたことは、震災後、役に立ったと思います。

近所付き合いの変化

震災前後で住まいが幾つかありますが、それぞれの近所付き合いはどうですか。

住居兼店舗に移る前は、Iのアパートに住んでいて、800メートル隣に店舗がありました。近所付き合いはありましたが、その人たちが生き延びたのかどうかは分かりません。

住居兼店舗に移ってからのご近所については、あの辺りは全部流されて皆さん東京や北海道、沖縄などに移られたので、コミュニティは残っていません。1階が流されて町並みが残っている所はコミュニティが残っているのですが、そうでない所は、てんでばらばらになってしまって、コミュニティも何もないなと思います。

今住んでいる所も、近所とのつながりというと、町内会の班長になったときに妻が市報を配るぐらいです。隣近所と挨拶したりして、なじんではいますが、町場といえば町場なので、そこまで濃い付き合いではありません。

仮設住宅での生活はどうでしたか。

狭いですし、隣の声が筒抜けですし、最初はやはり不満がありましたが、人の声が聞こえるという安心感もありました。大きな仮設住宅だったので、入居者が増えていくにつれて、同じ境遇の人たちがこんなにいるのだという心強さがあったと感じます。

我慢できるところは我慢しました。途中でお風呂の追いだきが付いたのですが、足をたたまないと入れないぐらい小さい浴槽なので、追いだきを付けなくても蛇口をひねればすぐ熱くなるのです。ですから、私たちは追いだきを付けるのを断って、そういうお金はもっと困っている人のために使ってもらうようにしました。

ある程度のコミュニティは出来上がっていたので、入居者が少しずつ減っていくときは、少し寂しい感じもありました。

メッセージ

将来の被災者に伝えたいことはありますか。

震災直後は、あれこれ考えるのではなく、とにかく自分と家族が生き抜くことだけ考えればいいと思います。私と妻も、Cの方に行くまで、途中の山で知り合いの家に寄ってリュックサックをもらい、妻は靴がなかったので靴をもらい、わらしべ長者のようにして生きました。最初はパニックになりますが、生き抜かないとその後の生活はないので、まずは絶対に生き抜くという強い意志が必要だと思います。

その後は、いろいろな情報を注視してほしいです。情報がないと、申請期間が終わった後に制度の存在に気付いたり、あと半年待てばその制度が使えたのに、頑張って先に再建してしまったために使えなくなったり、いろいろな不具合が生じます。ただ、パソコンもラジオもない中で情報収集には限界があるので、行政側にも制度の周知徹底をお願いしたいです。

聞き手

佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)

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