被災者の証言

被災者の証言

A・M 氏

A・M 氏

当時40代、会社員(観光物産協会)、B市在住。
持ち家・戸建ては被災なし。

当時25歳の長男が避難誘導中に津波の犠牲に。避難場所や避難路の重要性を伝えるため絵本を出版し、市のシンボルロード(避難路)を管理する団体陸前高田「ハナミズキのみち」の会の立ち上げに尽力した。

発災時の家族の状況

被災直後のご家族の状況について教えてください。

住居は高い棚の上から物が落ちた程度で、無傷でした。家の後ろにC川支流の深い川が流れているのですが、後から聞いた話では、C川をさかのぼってきた水が川の石をガラガラと鳴らしたという情報もありました。

発災当時、長男(25歳)は、国道沿いの市の施設に転職して半年たっていませんでした。そのときは、避難場所に指定されていた市民会館へ上司2人と女子高校生2人を車に乗せて避難誘導していて、私は会館へ入っていくところで長男とあいさつを交わしています。避難場所に入ったので私は安心してその場を離れたのですが、長男はそこにとどまり、亡くなりました。

ご主人とはいつ再会できたのでしょうか。

主人はD町の歩道橋がある辺りで地震を感じ、そのまま川を渡って会社に戻ったそうです。津波が来たと聞いて慌てて自分の車で山手に上がり、ぎりぎり間に合ったようです。いつもの帰り道が被災して通れなかったので、山手のE町を回り、帰宅したのは夕方でした。そのとき、娘夫婦が遊びに来ていたので、夕方家族がそろったのですが、息子だけが帰ってこないという話はそのときからしていました。

その日は停電や断水が発生し、ガスも止まっていたのですか。

停電はしていましたが、プロパンガスを使えたので食事は取れました。でも、寒い夜でした。

私は長男と別れて、自宅に娘と孫がいたのが気になって帰ってきたのですが、すぐに反射板のストーブを物置から出して、毛布を娘と孫にかぶせました。ストーブをつけていたので寒さはそんなに感じませんでしたが、外は雪がちらついていました。

ご主人はすぐに仕事を再開できたのですか。

会社の状況は分からないのですが、主人は家族が不明だということでひと月ほどお休みを頂きました。その後、会社は再開したようです。

長男が見つかったのは発災から10日後ですね。遺体安置所にかなりの数のご遺体が上がっていると聞いて、毎日探しに市内外の体育館などに足を延ばしていました。車だとガソリンがかかるので、バイクに2人乗りして、安置所巡りをしていました。

生活への影響

ご家庭に経済的な影響はありましたか。

大きくはなかったように思います。備蓄が結構あったのと、プロパンガスは使えましたし、お風呂は川から水をくんで、竹を燃料にしてお湯を沸かして、シャンプーは毎日交代でしていたので、特に困っていませんでした。お手洗いもくみ取り式ですので、全く問題ありません。

備蓄に関しては、なくなりそうになるとすごく心細い思いをした記憶はありますが、何とかひと月は食べることができましたし、灯油もボイラーのタンクいっぱいに入っていたので、ストーブをたいて何とか暖を取っていました。

備蓄は意識的にしておられたのでしょうか。

そうですね。パスタなどの麺類のほか、お米は常に30キロの袋を常備していました。野菜も畑に植えていたものがあったので助かりました。冷凍庫の電源が切れたので、凍ったものをそのまま発泡スチロールに詰めて長持ちさせる工夫はしました。

川が自宅の後ろにあり、水はくむことができました。きれいではありませんけれども、体を洗うことはできました。飲み水は給水車に頼りました。大阪などいろいろな所から来ていただきましたね。

絵本出版に至った思い

ご自身の心労はものすごかったのではないかと思います。どのようにして乗り越えてこられたのですか。

とにかく泣き続けていたそうなのですが、救われたのは外孫の存在でした。娘一家がわが家に来ていたので気が張っていたのだと思います。炊事は毎回私がしていました。

10日目には長男の遺体が自宅に帰ってきたので、今度は遺体が傷まないようにと気を張っていたのだと思います。その中で、夢を見たのかどうか分かりませんが、「悔しかった。こんなことを繰り返しては駄目だ」という息子の声を聞きました。「子どもたちに伝えていかなければならない」「そうだね」という会話をしていたように思います。

それ以降は息子から託されたような気持ちになり、悲劇を繰り返さないために誰が見ても分かりやすい避難路を作らなければならないという思いが強まっていきました。そして、この思いを子どもたちに伝えるために絵本にまとめようと思いました。

絵本はどのような経緯で出版に至ったのですか。

2013年5月、『ハナミズキのみち』という絵本を金の星社から出版しました。私がおぼろげな思いの中で構想を練っていたところ、野上暁先生がB市へライブラリーへの支援に来られていて、その先生に「実は絵本を出したいのです」と話したことがきっかけです。

絵は黒井健先生にお願いしました。黒井先生も被災地に対して何か支援をしたかったけれども画家として何を支援できるのか分からなかったそうで、息子の名前と漢字が同じだったという縁もあり、描いてくださることになりました。

構想の当初は、同じ思いを持った人たちが毎月のようにF公民館に集まり、「こんなばかげたことは繰り返しては駄目だよね」「どうしたらいいだろう」という話をしながら、私の構想もどんどん固まっていきました。東京とB市を何度も行ったり来たりしながら、編集の先生や黒井先生と打ち合わせを繰り返し、2年2カ月かけて絵本を完成させました。

そして、絵本のようにシンボルロード(避難路)が完成し、避難路ができたらそれを管理する団体もつくらなければならないということで、「陸前高田ハナミズキのみち」の会を立ち上げました。出版と同じく2013年5月に発足したので、今年で10周年を迎えました。

こうした活動は1人だけではなかなかできない部分もあると思います。

本当にそのとおりです。メンバーには感謝の思いしかありません。中には家族や自宅を失った人やフィアンセを亡くした人もいます。そんなメンバーが、本当にぶつけようのない、恨みどころのない自然災害に対して、思いをどこかで共有したいということで私の思いに共感してくれたのです。

今でも4月末にはハナミズキが満開になるのですが、皆さん会うたびに「きれいに咲いたね。今年もありがとうね」と言っていただきます。市内外の方々の応援がパワーになっています。

G町への移住が増加

G町では浸水した所もありましたよね。地域に関して覚えていることはありますか。

G町に移住する方が多く、住宅が増えました。助け合いの精神は以前より強くなっているのではないかと感じます。山あいに土地が結構あったので、宅地を造成して、若い夫婦がどんどん移住しています。

どんな支援があればいいか

今まで大変な経験を積み重ねてこられたと思うのですが、Aさんの経験の中で、こういう支援があればよかったと思うことはありますか。

被災直後の行政は、一般市民が自ら声を上げて話に行きやすい場所ではありませんでした。しかし、当時の市長さんが市職員の遺族のお宅を一軒一軒回って手を合わせてくださった時期があって、そのときに私が市長に直訴し、一市民の一声を真剣に聞いてくださったことがありました。

それから、私は観光物産協会にいたので市役所の職員さんと一緒にイベントを盛り上げたりして面識があったので、いろいろな方に心の内をぶつけてきたのも良かったのだと思います。

ですから、行政も一般市民も市長も膝を交えて話せる場所が必要なのだと思います。行政の言うことを聞けと言うのではなく、市民の意見を聞いてくれる行政であってほしいと思います。

その後、市役所に「市長直送便」というものが置かれるようになりました。市民が好きなことを書いて投函すると市長に直接届くというものです。そうしたシステムが震災後にできたのはありがたいと思います。

自宅が被災したり、仕事自体が苦しくなったりする方にとっては、行政が被災者に向き合うことと一緒になって考えていくことが大事だということが強く伝わりました。

それから、いろいろな法規が復興を遅らせた面もあります。法律によって、家を建てるのが遅れたり、意見を阻害されたり、そんなばかなことがあるわけないと切られたりしたこともあったと思います。決まりにもいろいろあるのでしょうけれども、大災害が起きたときには規制を緩めていくことも必要ではないでしょうか。法律を守ればそれでいいのではなく、少しでも被災地に寄り添うような動きがあればいいと思います。

聞き手

佐藤 翔輔(東北大学災害科学国際研究所)

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