被災地での55の挑戦 ―企業による復興事業事例集―
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52 '3(チャレンジ'挑戦( まず、復興プロジェクトの実現に向けて取り組んだのが、地元女川町の人材と製造場所の確保であった。人材確保の面では、「ちきゅうの子22」の代表である蓮見氏と商工会の青山氏が人材の発掘と人選にあたった。その結果、阿部美和氏(ディル・セ・おながわ㈱ 現代表取締役)が参画。阿部氏は、震災前「協同組合女川スタンプ会」で商店街のポイント及び商品券事業の事務局として勤務していた。震災により組合が解散となり失職したところに同プロジェクトの話があったという。 また、場所の確保は2012年4月に女川高校グランドに開設された、被災地最大規模の木造仮設店舗「きぼうのかね商店街」に入所することができた。2012年8月には製造を開始した。同商店街は、がれきの中から見つかった「希望の鐘」をシンボルとし、震災で被害を受けた女川町の商店と町民生活の復興のために開設された商店街である。人材と場所の確保のいずれにおいても商工会の青山氏が果たした役割が大きかったという。 これに先立ち、当社は炊出し用のカレーに使ったスパイス・具材をパッケージしたものを「女川カレー」として商品化させた。どんな食材と合わせても味がまとまる、非常にアレンジしやすい点をウリにした。その後、女川町の観光資源としてカレーを浸透させるため、デパートでの催事、各種イベントに精力的に出店。バラッツ氏は製造開始にこぎつける前に販促活動を実施することが重要と考えた。その甲斐もあって、徐々に「女川カレー」は復興のシンボルとして注目を集め始めた。 しかし、同プロジェクトを女川町の経済の活性化につなげていくには、「女川カレー」を地元でも必要とされる商品にすることが必要であった。そこで、バラッツ氏は青山氏、蓮見氏とともに、観光協会や地元飲食店の人達に商品をPRしながら、「女川カレー」を使ったオリジナルメニューの開発を呼び掛けた。この時も青山氏は町民に幅広く働きかけてくれた。バラッツ氏は「青山氏は女川町の復旧・復興の最前線に立っている方。彼の人柄と孤軍奮闘している姿は地域の名産品を作りたいと思っていた女川町の人達の心に響いた」と語るように、青山氏のサポートはここでも大きな力となった。その結果、10店舗の飲食店が賛同し、具材に海の幸を使ったカレーライスやラーメンのほか、ホタテの串焼きにルーをかけたり、カレイの天ぷらにカレーを絡めた料理を考案。観光協会も新たな名物にしようと、「復興カレー!認定・女川カレーマップ」を作り、PRに乗り出してくれた。現在、「女川カレー」のオリジナルメニューを提供する店は11店舗まで拡大し、インターネット販売以外にも31カ所で購入することができるまでに拡大している。 「女川カレー」の製造は2012年11月に設立されたディル・セ・おながわ㈱に引き継がれ、同社の経営は女川町を地元とする阿部氏に委ねられた。当社は、首都圏を中心とした販売活動の面で継続的にサポートする。経済的かつ継続的な復興支援というバラッツ氏の想いは、復興の推進母体となる新たな会社を生み出し、小さくても雇用の創出という着実な一歩を踏み出している。 '4(エッセンス'大切なこと( 商品化した「女川カレー」 本取り組みは、「地域外」の企業が地元住民を巻き込み、商品化に結び付けた稀有な例である。バラッツ氏は、「ここまで進んでこられたのは、『素材』、『ニーズ』、『地域』、そして『人』が結び付いていたから」と語る。「素材」はカレーのスパイス、「ニーズ」は名産品を通じた復興への想い、「地域」は女川町、そして、炊き出しのきっかけを作った蓮見氏や地元の町民とのパイプ役を担った青山氏といった「人」がこれらを結び付けた。「これからが正念場。今後も販売活動を継続しながらもっと多くの人に知ってほしい」と先を見据える。 女川カレープロジェクトメンバー '最左:バラッツ氏、左2番目:蓮見氏 中央:阿部氏、右3番目:青山氏(

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